山本浩二
第3回WBC日本代表監督時代。 (2013年3月8日 東京ドームにて) | |
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 広島県広島市佐伯区 |
生年月日 | 1946年10月25日(76歳) |
身長 体重 |
183 cm 82 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1968年 ドラフト1位 |
初出場 | 1969年4月12日 |
最終出場 | 1986年10月27日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督歴 | |
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野球殿堂(日本) | |
選出年 | 2008年 |
選出方法 | 競技者表彰 |
この表について
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山本 浩二(やまもと こうじ、1946年10月25日 - )は、広島県広島市佐伯区出身の元プロ野球選手(外野手)・監督。
本名および旧登録名は「山本 浩司」(1974年まで)[1]。
2014年から2022年まで日本プロ野球名球会理事長を務め、並行して野球解説者として活動している。
「ミスター赤ヘル」の愛称で知られ、現役時代は広島東洋カープのスター選手として活躍し、引退後は広島監督を2度務め、日本代表監督も務めた。
NPB史上、大卒で500本塁打を達成した唯一の人物であり[2]、セ・リーグ初の外野手部門のダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を受賞し[3]、セ・リーグ最多記録となるダイヤモンドグラブ賞を10回受賞している。日本代表監督としては2013年のワールド・ベースボール・クラシックでベスト4まで導いた。
経歴[ソースを編集]
プロ入りまで[ソースを編集]
父は軍人で、母と兄二人と姉は広島原爆投下に遭って被爆しており、本人は被爆2世である[4]。子供の頃、父に連れられ、当時の広島カープの本拠地・広島県営球場へ太田川対岸から渡し船で何度も通った[5]。この時代の広島の主力選手であった、エースピッチャー・長谷川良平、4番・小鶴誠、韋駄天・金山次郎に憧れ、これらを全部足した選手になりたいと夢見て野球に打ち込んだ[要出典]。
自分自身の力で甲子園へ行くため、また大学進学を視野に入れた家族の意向もあって[要出典]、野球では全くの無名である広島県立廿日市高等学校に進学した。入学入部と同時にエース・4番打者となる(県内の同期には高橋一三、小川邦和らがいる)。3年時には主将として夏の甲子園県予選に臨み、もう少しで甲子園に手が届く所まで勝ち進んだが、準決勝でエース河本和昭(のちにサンケイスワローズ1位指名を拒否)を擁する強豪校の広陵高等学校に、17安打を打たれ1-9で敗北した。
評判を人伝に聞いた南海ホークスの鶴岡一人監督の目に留まり、鶴岡から「今プロに入っても通用しない」と大学進学を勧められ[要出典]、高校卒業後は法政大学文学部英文学科に進学した。鶴岡は後年、当時の山本について「投手としてはともかく、打撃には非凡なものを感じた」と語っている[要出典]。
投手として法大野球部に入部したが、1年生部員だけで50人いた当時の法大では台頭できず、すぐにエリートコース(合宿組)に入った田淵幸一と違って、富田勝、桑原秀範らと共に一般部員の立場に甘んじていた。2年次、山中正竹の入部をきっかけに外野にコンバートされ、松永怜一監督に個人特訓を受けて打撃の才能が開花し、クリーンナップに抜擢された。以降の山本は、田淵、富田と共に「法政三羽ガラス[6]」の異名を取り、法政黄金時代を築き上げる大きな原動力となった。東京六大学野球リーグでは在学中3度のリーグ優勝を経験。1968年の全日本大学野球選手権大会では決勝で駒大を降し優勝。リーグ通算で65試合出場、229打数67安打、打率.293、8本塁打、30打点の成績を残し、ベストナインを2回獲得した。
山本は地元・広島カープに入ることを熱望した[7]。それまで広島は創設19年でAクラスは1回、Bクラス18回の弱小球団であったが、未だ優勝したことのない地元球団を優勝させることを夢としていた。プロ入りを不安視する家族の心配があったこともあり、もし広島以外に指名されれば断り、場合によってはサラリーマンとしての人生も考えていたという[8]。
1968年のドラフト1位で予備抽選2番目の広島東洋カープに指名され、入団した。
入団当初の背番号は27だった。
現役時代[ソースを編集]
1969年4月12日の開幕戦で、6番打者・中堅手として先発出場。その後もレギュラーとして起用され、8月からはクリーンナップを任される。同年は規定打席(22位、打率.240)にも達した。
1970年は3番、1971年は主に5番、1972年は1番や5番に起用され、5月11日の対中日ドラゴンズ戦(広島市民球場)では2-2の同点で迎えた9回一、二塁の打席で盟友である星野仙一からサヨナラ安打[9]、6月10日の対大洋ホエールズ戦(川崎球場)では1点を追う9回二死満塁の打席で小谷正勝から自身初の満塁本塁打[10]である逆転満塁本塁打を放った[11]。根本陸夫監督、関根潤三打撃コーチ、上田利治コーチ(ルーキー時に退団)、広岡達朗内野守備コーチらの指導により、徐々に成長を見せる。1971年より、山内一弘の引退で、背番号8を譲り受けて現役引退まで着用した。
1974年には主に3番で起用され、打率.275、28本塁打(リーグ5位)、74打点という好成績を残した。同年8月27日の対ヤクルトスワローズ戦(広島市民球場)では1-1の同点で迎えた延長11回に浅野啓司から自身初のサヨナラ本塁打を放った[12]。同年シーズンオフ、姓名判断で「浩司という名前は勝負師に向かない」と言われたので名前を「浩司」から「浩二」に変更した[1]。
1975年6月下旬から4番に定着し、オールスターゲーム第1戦(阪神甲子園球場)では、セ・リーグの3番として4番王貞治、5番田淵とクリーンアップを組み、6番に入った衣笠祥雄と共に2打席連続アベック本塁打を放った[13]。8月は打率3割、7本塁打、19打点を記録し、月間MVPに選出された[14]。シーズンを通して好調を維持し、初の打撃タイトルとなる首位打者を獲得した[15]。打率.319、30本塁打、84打点、24盗塁という自己最高の成績を記録し、自身初のシーズン打率3割とシーズン30本塁打を達成し、チーム初優勝に大きく貢献すると共に、シーズンMVPに輝いた[16]。阪急ブレーブスとの日本シリーズでは全6試合で24打数8安打5打点、第3戦、第4戦で本塁打を放つなど活躍するが、日本一には届かなかった。このシリーズでは敢闘賞に選出されている[17]。このシーズンから広島カープは赤ヘルを採用し、山本の愛称「ミスター赤ヘル」が定着するようになる[18]。
1976年は低迷するが、1977年に王貞治に次いでそれぞれリーグ2位の44本塁打、113打点の成績を残し、同年から5年連続40本塁打を記録している。この記録を持つのは王と山本のみである。同年5月22日の対読売ジャイアンツ戦(後楽園球場)では4回に高橋良昌から逆転満塁本塁打[19]、10月9日の対阪神タイガース戦(広島市民球場)では、かつての同僚である安仁屋宗八からサヨナラ2点本塁打を放った[20]。
1978年、5月31日の対阪神戦(阪神甲子園球場)で1回に上田次郎から放った満塁本塁打[21]を含む44本塁打で自身初・球団史上初となる本塁打王に輝き、リーグ2位の112打点を記録する[22]。この本塁打王獲得で、王貞治は1976年から再び返り咲いた本塁打王のタイトル獲得が、2年連続でストップすることとなった。
翌1979年は5月まで打率が.230台に低迷するなどスランプに陥ったが、妻の支えもあって6月以降は復調した[23]。オールスターゲーム第3戦(明治神宮野球場)では、5-5の同点で迎えた9回無死一塁の打席で柳田豊からサヨナラ2点本塁打[注 1][24]を放ち、MVPに選ばれた[25]。同年はリーグ2位の42本塁打を残し、113打点で自身初・球団史上初の打点王を獲得した[26]。同年は2回目のリーグ優勝、初の日本一を経験するが、近鉄バファローズとの日本シリーズは全7試合で23打数3安打2打点1本塁打と真価を発揮できなかった。ちなみに王貞治の8年連続打点王獲得を阻止し、山本も強打者として改めて評価されたことでも有名になった[27]。
1980年、7月8日の対巨人戦(広島市民球場)では1点を追う6回一死満塁の打席で鹿取義隆から逆転満塁本塁打を放った[28]。シーズンでは44本塁打、112打点で二冠を獲得して、打率もリーグ3位の.336を記録し、得点、塁打、四球、長打率、出塁率のすべてでリーグトップの成績となった。2度目のMVPにも選ばれた[29]ほか、衣笠祥雄との500本塁打コンビはYK砲と呼ばれ、王貞治と長嶋茂雄のコンビのON砲(106本塁打)に次ぐ、日本プロ野球歴代2位の86本のアベック本塁打を打っている。同年の近鉄との日本シリーズでも2本塁打を放ち、2年連続日本一に貢献。
1981年、6月23日の対阪神戦(阪神甲子園球場)では6回に山本和行[注 2]から満塁本塁打を放った[30][31]。シーズンでは43本塁打、103打点で2年連続の二冠を手にした[32]。
1982年、8月6日の対ヤクルト戦(明治神宮野球場)では6回に鈴木正幸から満塁本塁打を放った[33]。
1983年、長嶋清幸と山崎隆造が台頭してきたこともあり、左翼手にコンバートされた。4月30日の対阪神戦(阪神甲子園球場)ではサイクル安打を記録した[34]。6月17日の中日戦で牛島和彦、7月5日のヤクルト戦で黒田真二からサヨナラ本塁打を打っている。最終的にリーグ4位の打率.316を残し、大島康徳と並ぶ36本塁打で、自身4度目の本塁打王を獲得した。
1984年からは打撃コーチを兼任し、5月5日の対巨人戦(後楽園球場)で4回表槙原寛己から左前打を放ち、通算2,000安打を達成した[35]。4度目の優勝を決めた10月4日の対横浜大洋ホエールズ戦では、0―2で迎えた6回無死一、三塁で関根浩史から逆転で決勝点となる3ランを打った[36]。阪急との日本シリーズでは、第1戦3回裏に山田久志から同点適時打、第3戦2回表に佐藤義則から先制ソロ、第4戦9回表に山田から決勝適時打を打ち、日本一に貢献した。同年オフ、王貞治(現役最終年の1980年当時)を抜いて球界最高額となる年俸8,500万円で契約を更改した。
1985年7月26日の中日戦で、杉本正から本塁打を打ち、通算500本塁打を達成し、同年には通算200盗塁も達成している(両記録を持つのは張本勲、山本、衣笠の3人のみ)。同年限りで監督を退任した古葉竹識から「浩二、監督やれ。プレイングマネージャーでもいいから。いきなり監督でもいい。ヘッドコーチをつければいい」と言われたが、山本は現役に拘り、阿南準郎が監督に就任した[37]。
1986年、リーグ優勝を花道に40歳で現役引退した。9月11日の中日戦の11回裏に杉本正からサヨナラ本塁打を打ち、39歳10か月は球団最年長記録でもある[38]。チームは130試合制の129試合目(10月12日のヤクルト戦)にリーグ優勝を決め、日本シリーズ1戦目に東尾修から同点本塁打を打つも、これが現役最後の本塁打になった[39]。日本シリーズは史上初となる第8戦まで行われ[34]、結果西武に破れたものの、広島ナインから惜別の胴上げをされ広島市民球場は万来の浩二コールに包まれた[34]。翌日の引退会見の際、涙ながらに「山本浩二は幸せな男です」と述べた[34]。
1987年 1月12日に広島県民栄誉賞受賞。4月5日の、近鉄とのオープン戦(広島市民球場)が引退試合として行われた。来場者にはメッセージカードが配布され、4番・中堅手で出場し2打数1安打で[40]、試合終了のセレモニーでの挨拶では会見での言葉に付け加える形で「広島に生まれ、カープに育てられました。山本浩二は幸せ者でした」と述べた。
「大学出身者での通算536本塁打」は日本最多記録である。山本の功績を讃え、背番号「8」は広島球団史上初の永久欠番となった[34]。
引退後・監督時代・解説者時代[ソースを編集]
引退後は1987年から1988年までの2年間、NHK野球解説者・日刊スポーツ野球評論家を経て、1989年から古巣・広島の監督に就任した。契約は5年契約でヘッドコーチに大下剛史、投手コーチに池谷公二郎、打撃コーチに水谷実雄を招聘した[41]。
1989年、1990年はリーグ2位で、1991年にはリーグ優勝し、日本シリーズでは西武に3勝4敗で敗れた。1992年は10年ぶりのBクラスとなる4位に終わり、1993年にはリーグワーストタイのサヨナラ負け14回を記録し、19年ぶりの最下位に終わり、同年限りで辞任した。
1994年から2000年までの7年間、日本テレビ・広島テレビ・ラジオ日本野球解説者を務めたが、球団に要請され、2001年から再び広島の監督に就任して8年ぶりの現場復帰。チーフ兼打撃コーチに文化放送・テレビ神奈川野球解説者の松原誠、投手コーチにテレビ朝日・広島ホームテレビ野球解説者の北別府学に招聘した。第2次監督在任中は一度もAクラスになることがなく、2005年に成績不振(12年ぶりの最下位)を受け、辞任した。監督時代の第1期では前田智徳や緒方孝市、江藤智など、第2期には新井貴浩や嶋重宣、栗原健太を打線の主力として育成した。監督退任後の2006年より、日本テレビ・広島テレビ野球解説者に復帰した。
2007年、星野仙一日本代表監督の下、北京オリンピック野球日本代表チームの守備・走塁コーチに就任したが、結果は4位に終わった。
2008年に野球殿堂入り。2010年より日本プロ野球名球会副会長に就任し、2014年から2022年まで理事長を務めた。現在は顧問に就いている。
2012年10月10日に、「侍ジャパンマッチ2012「日本代表 VS キューバ代表」から野球日本代表監督を務める」と発表され[42]、11月13日、背番号が「88」となったことが発表された[43]。投手総合コーチには東尾修を起用した[44]。
2013年3月に開催された第3回WBCでは、過去3回中最高の成績で決勝ラウンドまで通過するも、準決勝のプエルトリコ戦に1対3で敗北し、優勝を逃した。また、8回裏の重盗失敗に関しては、内野守備走塁コーチを務めた高代延博によると、グリーンライトのサインが出ているとはいえ行かせると山本に念を押したのは自分であるとし、山本は会見で「グリーンライトのサインを送り走らせたことは間違ってない。悔いはない」と述べた。高代は「スタッフの責任も選手のミスも、そのすべてを背負い込んでくれた」と自著で著している[45]。
2019年春先に体調を崩し、長期休養に入った。2020年に旧友の田淵が野球殿堂入りし、1月18日に行われた法大OB会にて田淵は「今朝(山本と)電話にて話して、現在は体重こそ減ったが現在30〜40分くらいの散歩をしているそう。もしかしたら4月から解説に復帰する」と山本の状況を語っている[46]。
2020年2月7日、日本テレビ解説者として宮崎市の巨人キャンプ視察に訪れた際に、山本自身が記者団の取材に応じて「前年(2019年)に膀胱がんと肺がんを患って手術した」ことを明らかにした[47]。復帰と共に、日本テレビ・広島テレビの野球解説者として活動している。
選手としての特徴[ソースを編集]
この節を編集される方は、まずプロジェクト:スポーツ人物伝#選手の身体や技術の能力についてをご覧ください。 |
打撃[ソースを編集]
現役時代は投手の配球を読むのが上手く「読みのコージ」とも呼ばれた[48]。大抵の打者はネクストバッターズサークルで素振りをして相手投手にタイミングを合わせることが多いが、山本は素振りは全く行わず、片膝を付いて微動だにせず、投手の癖をじっくり観察した[49]。入団したばかりの川口和久が投球練習をしているのを数球ほど眺めていた山本はすぐにストレートとカーブを放る際の川口の癖を見抜き、投球前から真っすぐとカーブを言い当てている[50]。
江川卓は山本との対戦を特に苦手にしており、引退後のラジオ番組のインタビューでは、自身がアマ時代に「怪物」と謳われてからのプロ入り後「最初に一番衝撃を受けたバッター」に山本の名を挙げた[51]。
守備[ソースを編集]
外野手としても302守備機会連続無失策のセ・リーグ記録を樹立[52]。広い守備範囲と法大1年までは投手だったこともあり、強肩も武器だった[52][53]。
特筆[ソースを編集]
人物[ソースを編集]
のんびり屋の性格で、後に妻になる鏡子が、神宮球場に憧れの山本本人を見に来ているのを見ながら、「あれ(鏡子)、誰の彼女じゃろか?」と感じていたほど呑気であったという[54]。また、プロポーズの言葉は「両親に会ってくれ」だったと述べている[55]。
現役時代、王貞治、田淵幸一、星野仙一、平松政次、松岡弘と共に、細川たかしの「六つの星」という歌にバックコーラスで参加したことがある[56]。
現役当時、山本の法政大学野球部の5学年後輩に当たり読売ジャイアンツの選手でああった山本功児と同音の姓名であったため、功児本人が広島戦で出場した時に偽物を意味する『ニセこうじ』と野次を飛ばされることが多々あった。
広島選手時代に同姓選手が不在(スコアボードでの表記が「山本浩」ではなく「山 本」になるなど)だったシーズンは、山本一義引退直後の1976年のみ(同年オフに山本穰が入団し1982年まで在籍。1980年オフに山本和男が入団し山本浩二引退後の1988年まで在籍)。
現役時代の移動時に着用していた黒スーツ(ストライプ入り等)、パンチパーマなど、衣笠祥雄、江夏豊らと新幹線のホームに立つと迫力があった。当時のプロ野球選手の私服はこうしたヤクザ風のものが主流であり、鼠先輩(岡山県赤磐市出身)も自身のパンチパーマにヤクザ風のスーツファッションは、現役時代の山本と衣笠を意識したものと話している[57]。
ヤマザキ「エイトドーナツ」の袋に描かれている野球選手のモデルは山本である[要出典]。
野球[ソースを編集]
現在、球場でファンが選手の名前で大声援することを「○○コール」と呼ばれているが、これは山本が「ミスター赤ヘル」としてチームを引っ張るようになってから、打席に立つたびに「浩二! 浩二!」というファンからの大声援が起こるようになり、マスコミがそれを「浩二コール」と名付けて広めたためである、といわれている。また、トランペットなどの楽器(鳴り物)による応援は、山本の打席で行われたのが最初だと言われている[要出典]。山本は自書で自身の応援歌を「コンバットマーチ」であるとしている[8]。応援歌の歌詞は「飛ばせ浩二、大空高く」であるが、前半の「飛ばせ浩二」の部分が早稲田大学のコンバットマーチのメロディである。
現役引退後の1999年6月27日の巨人戦(広島市民球場)にて、かつて広島に在籍した金城基泰の始球式で打席に立ったところ、初球の投球を振らずに見送った上に2球目を左翼席への本塁打にしたことがある。打った本人は大喜びしていたが、当時の達川晃豊監督は唖然としていた[独自研究?]。
2007年、オリンピック野球日本代表守備走塁コーチに就任し、三塁ベースコーチを務めた。経験のない三塁ベースコーチを務めることに不安視する声に対し、「俺は現役時代守備や走塁に人一倍気をつけてきた」といい、「500本以上本塁打を打っている選手で、守備や走塁を教えることができるのは、俺だけじゃないか」と不安説を一蹴した[要出典]。
交友関係・家族関係[ソースを編集]
大学の同期である田淵幸一、六大学リーグで何度となく対戦した星野仙一とは、大学時代から同学年の親友として有名である。大学入学後、田淵が山本に東京の案内をしたのがきっかけで二人が仲良くなったあと、あまりに二人が仲がいいので大学は違うが星野が妬いて入ってきたという[要出典]。
原辰徳とは公私で親交があり[58]、彼からは「僕の大好きな先輩の一人で、ヒーロー」だと称賛されている[59]。
2022年、三男でプロゴルファー(ティーチングプロ)の山本崇文がタレントせんだみつおの長女のせんだるかと結婚した[60]。
詳細情報[ソースを編集]
年度別打撃成績[ソースを編集]
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1969 | 広島 | 120 | 404 | 366 | 38 | 88 | 20 | 1 | 12 | 146 | 40 | 9 | 5 | 8 | 1 | 23 | 1 | 6 | 74 | 7 | .240 | .295 | .399 | .694 |
1970 | 128 | 514 | 461 | 67 | 112 | 8 | 4 | 22 | 194 | 56 | 21 | 12 | 4 | 0 | 41 | 1 | 8 | 77 | 7 | .243 | .316 | .421 | .737 | |
1971 | 123 | 484 | 431 | 42 | 108 | 19 | 0 | 10 | 157 | 52 | 25 | 10 | 4 | 4 | 39 | 1 | 6 | 56 | 7 | .251 | .319 | .364 | .683 | |
1972 | 130 | 557 | 485 | 73 | 125 | 27 | 0 | 25 | 227 | 66 | 18 | 11 | 10 | 5 | 52 | 1 | 5 | 55 | 9 | .258 | .333 | .468 | .801 | |
1973 | 126 | 526 | 449 | 68 | 121 | 24 | 1 | 19 | 204 | 46 | 10 | 12 | 12 | 3 | 59 | 1 | 3 | 75 | 10 | .269 | .356 | .454 | .810 | |
1974 | 127 | 529 | 476 | 74 | 131 | 23 | 2 | 28 | 242 | 74 | 18 | 8 | 6 | 2 | 41 | 5 | 4 | 72 | 18 | .275 | .337 | .508 | .845 | |
1975 | 130 | 526 | 451 | 86 | 144 | 21 | 0 | 30 | 255 | 84 | 24 | 9 | 1 | 5 | 67 | 6 | 2 | 39 | 6 | .319 | .406 | .565 | .971 | |
1976 | 129 | 535 | 464 | 79 | 136 | 26 | 3 | 23 | 237 | 62 | 14 | 7 | 3 | 2 | 62 | 2 | 4 | 57 | 13 | .293 | .380 | .511 | .890 | |
1977 | 130 | 552 | 448 | 102 | 138 | 24 | 4 | 44 | 302 | 113 | 22 | 4 | 0 | 6 | 94 | 6 | 4 | 64 | 12 | .308 | .428 | .674 | 1.102 | |
1978 | 130 | 563 | 473 | 114 | 153 | 28 | 0 | 44 | 313 | 112 | 12 | 4 | 0 | 4 | 84 | 9 | 2 | 74 | 10 | .323 | .425 | .662 | 1.086 | |
1979 | 130 | 556 | 467 | 90 | 137 | 20 | 0 | 42 | 283 | 113 | 15 | 5 | 0 | 6 | 81 | 10 | 2 | 71 | 8 | .293 | .396 | .606 | 1.002 | |
1980 | 130 | 539 | 440 | 91 | 148 | 28 | 3 | 44 | 314 | 112 | 14 | 12 | 0 | 7 | 87 | 11 | 5 | 52 | 13 | .336 | .445 | .714 | 1.159 | |
1981 | 130 | 553 | 473 | 102 | 156 | 21 | 0 | 43 | 306 | 103 | 5 | 3 | 0 | 4 | 73 | 7 | 3 | 56 | 12 | .330 | .420 | .647 | 1.066 | |
1982 | 130 | 544 | 448 | 84 | 137 | 21 | 0 | 30 | 248 | 90 | 8 | 3 | 0 | 7 | 87 | 9 | 2 | 56 | 14 | .306 | .415 | .554 | .969 | |
1983 | 129 | 558 | 462 | 86 | 146 | 19 | 2 | 36 | 277 | 101 | 5 | 6 | 0 | 8 | 85 | 11 | 3 | 62 | 11 | .316 | .419 | .600 | 1.019 | |
1984 | 123 | 508 | 437 | 64 | 128 | 15 | 0 | 33 | 242 | 94 | 5 | 4 | 0 | 5 | 64 | 2 | 2 | 59 | 12 | .293 | .382 | .554 | .936 | |
1985 | 113 | 460 | 382 | 57 | 110 | 15 | 1 | 24 | 199 | 79 | 2 | 2 | 0 | 6 | 71 | 5 | 1 | 55 | 14 | .288 | .396 | .521 | .917 | |
1986 | 126 | 501 | 439 | 48 | 121 | 13 | 0 | 27 | 215 | 78 | 4 | 2 | 0 | 4 | 58 | 6 | 0 | 69 | 10 | .276 | .367 | .490 | .857 | |
通算:18年 | 2284 | 9409 | 8052 | 1365 | 2339 | 372 | 21 | 536 | 4361 | 1475 | 231 | 119 | 48 | 79 | 1168 | 94 | 62 | 1123 | 193 | .290 | .381 | .542 | .923 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績[ソースを編集]
年度 | 球 団 |
外野 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | ||
1969 | 広島 | 118 | 255 | 8 | 3 | 2 | .989 |
1970 | 127 | 262 | 13 | 4 | 3 | .986 | |
1971 | 123 | 280 | 4 | 0 | 3 | 1.000 | |
1972 | 129 | 337 | 8 | 5 | 2 | .986 | |
1973 | 126 | 288 | 8 | 7 | 0 | .977 | |
1974 | 127 | 316 | 14 | 2 | 4 | .994 | |
1975 | 130 | 322 | 9 | 1 | 1 | .997 | |
1976 | 128 | 282 | 10 | 1 | 1 | .997 | |
1977 | 129 | 313 | 16 | 2 | 5 | .994 | |
1978 | 130 | 322 | 8 | 2 | 1 | .994 | |
1979 | 130 | 222 | 5 | 3 | 1 | .987 | |
1980 | 130 | 284 | 8 | 0 | 0 | 1.000 | |
1981 | 130 | 218 | 7 | 2 | 1 | .991 | |
1982 | 130 | 239 | 3 | 1 | 1 | .996 | |
1983 | 128 | 214 | 10 | 1 | 1 | .996 | |
1984 | 122 | 167 | 8 | 2 | 0 | .989 | |
1985 | 111 | 153 | 6 | 0 | 1 | 1.000 | |
1986 | 125 | 163 | 9 | 3 | 1 | .983 | |
通算 | 2273 | 4637 | 154 | 39 | 28 | .992 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 太字年はダイヤモンドグラブ賞の受賞
年度別監督成績[ソースを編集]
年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 | 球団 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1989年 | 2位 | 130 | 73 | 51 | 6 | .589 | 9 | 101 | .271 | 3.01 | 43歳 | 広島 |
1990年 | 2位 | 132 | 66 | 64 | 2 | .508 | 22 | 140 | .267 | 3.57 | 44歳 | |
1991年 | 1位 | 132 | 74 | 56 | 2 | .569 | ― | 88 | .254 | 3.23 | 45歳 | |
1992年 | 4位 | 130 | 66 | 64 | 0 | .508 | 3 | 122 | .260 | 3.60 | 46歳 | |
1993年 | 6位 | 131 | 53 | 77 | 1 | .408 | 27 | 155 | .253 | 4.29 | 47歳 | |
2001年 | 4位 | 140 | 68 | 65 | 7 | .511 | ― | 155 | .269 | 3.82 | 55歳 | |
2002年 | 5位 | 140 | 64 | 72 | 4 | .471 | 21 | 154 | .259 | 4.36 | 56歳 | |
2003年 | 5位 | 140 | 67 | 71 | 2 | .486 | 20 | 153 | .259 | 4.23 | 57歳 | |
2004年 | 5位 | 138 | 60 | 77 | 1 | .438 | 20 | 187 | .276 | 4.75 | 58歳 | |
2005年 | 6位 | 146 | 58 | 84 | 4 | .408 | 29.5 | 184 | .275 | 4.80 | 59歳 | |
通算:10年 | 1359 | 649 | 681 | 29 | .488 | Aクラス3回、Bクラス7回 |
- ※1 1989年から1996年までは130試合制
- ※2 2001年から2004年までは140試合制
- ※3 2005年から146試合制
タイトル[ソースを編集]
- 首位打者:1回(1975年[15])
- 本塁打王:4回(1978年[22]、1980年、1981年、1983年) ※セ・リーグ右打者記録
- 打点王:3回(1979年 - 1981年[26][32])
- 最多出塁数:3回(1979年[26]、1980年、1983年)
表彰[ソースを編集]
- 最優秀選手:2回(1975年[16]、1980年[29])
- ベストナイン:10回 (1975年、1977年 - 1984年、1986年) ※外野手として10度受賞は歴代2位タイ、セ・リーグ最多。外野手として8年連続は歴代2位タイ(他に秋山幸二、松井秀喜)で、松井と並ぶセ・リーグ最長
- ダイヤモンドグラブ賞:10回 (1972年 - 1981年)※外野手としての通算10回受賞・10年連続受賞は共にセ・リーグ記録、10年連続は歴代2位タイ(他に秋山幸二、菊池涼介[61])。1972年は高田繁、柴田勲と共に外野手部門でのセ・リーグ史上初の受賞[3]
- 野球殿堂競技者表彰(2008年)
- 日本シリーズ敢闘賞:1回 (1975年[17])
- 日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1984年)
- 月間MVP:5回(1975年8月[14]、1978年8月[62]、1980年6月[63]、1983年4月、1986年4月)
- オールスターゲームMVP:2回 (1975年 第1戦[64]、1979年 第3戦[25])
- 報知プロスポーツ大賞:1回(1987年)
- 広島県民栄誉賞(1987年)
記録[ソースを編集]
- 節目の記録
- 100本塁打:1974年6月13日、対阪神タイガース11回戦(阪神甲子園球場)、6回表に江夏豊から左越ソロ ※史上79人目
- 150本塁打:1976年5月7日、対大洋ホエールズ5回戦(川崎球場)、7回表に田中章から中越2ラン ※史上41人目[65]
- 1000試合出場:1976年10月5日、対阪神タイガース25回戦(広島市民球場)、4番・中堅手で先発出場 ※史上187人目[66]
- 1000安打:1977年5月22日、対読売ジャイアンツ6回戦(後楽園球場)、9回表に定岡正二から右前安打 ※史上101人目[67]
- 200本塁打:1977年8月11日、対阪神タイガース16回戦(広島市民球場)、8回裏に宮田典計から3ラン ※史上27人目[68]
- 250本塁打:1978年9月6日、対中日ドラゴンズ19回戦(ナゴヤ球場)、1回表に青山久人から中堅左へ2ラン ※史上15人目[69]
- 300本塁打:1980年4月8日、対横浜大洋ホエールズ1回戦(広島市民球場)、1回裏に遠藤一彦から2ラン ※史上12人目[70]
- 1500安打:1980年9月7日、対阪神タイガース19回戦(広島市民球場)、2回裏に山本和行から中前安打 ※史上40人目[71]
- 1500試合出場:1980年9月11日、対中日ドラゴンズ23回戦(ナゴヤ球場)、4番・中堅手で先発出場 ※史上64人目[72]
- 350本塁打:1981年4月28日、対中日ドラゴンズ4回戦(広島市民球場)、1回裏に三沢淳から左越先制2ラン ※史上10人目
- 3000塁打:1981年6月18日、対読売ジャイアンツ15回戦(広島市民球場)、6回裏に定岡正二から ※史上16人目
- 1000打点:1981年8月2日、対中日ドラゴンズ19回戦(広島市民球場)、1回裏に都裕次郎から左越先制2ラン ※史上13人目
- 1000得点:1981年8月20日、対読売ジャイアンツ24回戦(広島市民球場)、1回裏に水谷実雄の先制決勝2点適時二塁打で生還 ※史上14人目
- 400本塁打:1982年6月25日、対読売ジャイアンツ11回戦(広島市民球場)、6回裏に鹿取義隆から左中間へソロ ※史上8人目
- 300二塁打:1982年7月14日、対横浜大洋ホエールズ13回戦(横浜スタジアム)、4回表に竹内広明から右中間二塁打 ※史上21人目
- 3500塁打:1983年5月18日、対中日ドラゴンズ4回戦(ナゴヤ球場)、2回表に小松辰雄から左前安打 ※史上11人目
- 450本塁打:1983年10月3日、対読売ジャイアンツ25回戦(浜松球場)、7回表に堀内恒夫から左越ソロ ※史上7人目
- 2000安打:1984年5月5日、対読売ジャイアンツ4回戦(後楽園球場)、4回表に槙原寛己から左前安打 ※史上19人目
- 2000試合出場:1984年8月1日、対横浜大洋ホエールズ16回戦(広島市民球場)、4番・左翼手で先発出場 ※史上19人目
- 1000三振:1985年5月5日、対横浜大洋ホエールズ5回戦(広島市民球場)、1回裏に遠藤一彦から ※史上9人目
- 350二塁打:1985年6月5日、対横浜大洋ホエールズ11回戦(広島市民球場)、1回裏に関根浩史から ※史上14人目
- 4000塁打:1985年6月13日、対阪神タイガース9回戦(広島市民球場)、3回裏に伊藤宏光から左前安打 ※史上8人目
- 500本塁打:1985年7月26日、対中日ドラゴンズ12回戦(ナゴヤ球場)、2回表に杉本正から左中間へソロ ※史上4人目
- その他の記録
- シーズン40本塁打以上:5回(1977年 - 1981年)※歴代3位タイ
- シーズン30本塁打以上:9回(1975年、1977年 - 1984年)※歴代3位タイ
- シーズン100打点以上:6回(1977年 - 1981年、1983年)※歴代3位
- 5年連続シーズン40本塁打以上(1977年 - 1981年)※歴代2位
- 8年連続シーズン30本塁打以上(1977年 - 1984年)※歴代3位
- 13年連続シーズン20本塁打以上(1974年 - 1986年)※歴代3位タイ
- 5年連続シーズン100打点以上(1977年 - 1981年)※歴代3位タイ
- 17年連続シーズン100安打以上(1970年 - 1986年)※歴代4位タイ
- サイクルヒット:1983年4月30日、対阪神タイガース4回戦(阪神甲子園球場) ※史上36人目
- 9打数連続安打(1972年7月6日 - 7月8日)
- 302守備機会連続無失策(1975年4月5日 - 9月24日)※外野手としてのセ・リーグ記録
- 872試合連続出場(1976年10月22日 - 1983年8月28日)※歴代11位
- 入団の年から引退の年まで規定打席到達(1969年 - 1986年)
- 通算500本塁打・200盗塁達成(1985年7月26日)※史上2人目
- 通算満塁本塁打:11本(1972年、1974年、1977年、1978年、1980年、1981年、1982年、1983年、1984年)※歴代9位タイ
- 通算長打率:.5416(1969年 - 1986年)※歴代10位
- 通算外野手刺殺:4637 ※歴代2位、セ・リーグ記録
- 通算外野手補殺:154 ※歴代2位、セ・リーグ記録
- 通算外野手守備機会:4830 ※歴代2位、セ・リーグ記録
- 同一球場で1000安打(広島市民球場)
- オールスターゲーム出場:14回(1973年 - 1986年)
- オールスターゲーム通算打率:.316 ※100打数以上では歴代3位
- オールスターゲーム通算本塁打:14本 ※歴代1位
- オールスターゲーム通算打点:27 ※歴代3位タイ
背番号[ソースを編集]
- 27 (1969年 - 1970年)
- 8 (1971年 - 1986年、2001年 - 2005年)(永久欠番)
- 88 (1989年 - 1993年)
登録名[ソースを編集]
- 山本 浩司(やまもと こうじ)(1969年 - 1974年)
- 山本 浩二(やまもと こうじ)(1975年 - )
関連情報[ソースを編集]
著書[ソースを編集]
- 『人間山本浩二―競争社会をしぶとく生きるために』(1984年、交通タイムス社)
- 『栄光の背番号8:これがオレの野球人生だ』(1986年、交通タイムス社)
- 『コージのなん友かん友』(1987年、日刊スポーツ出版社)、ISBN 4-8172-0090-1
- 『浩二の赤ヘル野球』(1989年、文藝春秋) 、ISBN 4-16-343050-4
- 1987〜88年週刊文春に連載されたコラムを加筆修正し収録。
- 『野球と広島』(2015年、角川新書) 、ISBN 978-4-04-082014-9
- 『広島カープの血脈』(2016年、KADOKAWA) 野村謙二郎と共著、ISBN 978-4-04-601793-2
出演[ソースを編集]
野球解説者としての出演[ソースを編集]
- NHK時代
- NHKプロ野球
- サンデースポーツスペシャル(1986年11月-1988年10月)
- 日本テレビ・広島テレビ時代
- DRAMATIC BASEBALL(現行題名)
- 進め!スポーツ元気丸(広島テレビ)[73]
ドラマ[ソースを編集]
映画[ソースを編集]
- 『BADBOYS』(全力エージェンシー、2011年) - 特別出演
- 『こいのわ 婚活クルージング』(角川映画、2017年)
バラエティ[ソースを編集]
- 『中井正広のブラックバラエティ』(日本テレビ) - 不定期出演
- 『秘密のケンミンSHOW』(読売テレビ)
- 『山本浩二&譲二のドレミファスタジアム』(歌謡ポップスチャンネル)山本譲二との野球✕音楽のオリジナルバラエティ特番 2019年3月24日放送
ラジオ[ソースを編集]
- 『武田和歌子のぴたっと。』(ABCラジオ、2014年12月4日)「福本豊のあの人は今 元・プロ野球選手名鑑」に電話出演。
CM[ソースを編集]
- 現役時代
- ヒロウン「リーグスター野球用品」
- ますやみそ 味噌(広島ローカル。『麹の良さが決め手』がキャッチフレーズで、津田恒実に「ウチのチームと一緒ですね! ねぇ、浩二さん!」とギャグを言われる)
- ゴールドもみじ(広島ローカル。『ゴールドもみじはお菓子のホームラン王です』というフレーズを言う)
- 引退後
- 味の素「ほんだし いりこだし」
- 日本航空「東京 - 広島線」
- ロート製薬「新V・ロート」(1987-1988年)
- ブリヂストン 自転車(浅野ゆう子と共演)
- サントリー「モルツ」
- ハウス食品 “カレーはハウス”キャンペーン(1994年)、“カレーでファイト!”キャンペーン(2008年)(いずれも田淵幸一・星野仙一と共演)
- 興和「バンテリン」(2000年代)
ディスコグラフィー[ソースを編集]
- 7インチEP
登場作品[ソースを編集]
- 『野球狂の詩』(漫画、作:水島新司)
- 『ミラクルジャイアンツ童夢くん』(漫画・アニメ、原作:石ノ森章太郎) - 声:沢木郁也
脚注[ソースを編集]
注釈[ソースを編集]
出典[ソースを編集]
- ^ a b 第13回 改名で開運「浩司」から「浩二」へ - ウェイバックマシン(2016年5月25日アーカイブ分)
- ^ “世界の本塁打王に続くのは? NPB、通算本塁打数ランキング1〜5位。【プロ野球歴代最高記録】”. ベースボールチャンネル. (2021年5月3日) 2021年5月18日閲覧。
- ^ a b “三井ゴールデングラブ賞 歴代受賞選手”. 2021年2月17日閲覧。
- ^ (被爆国から2015)選手の胸には8月6日 今も黙祷
- ^ “鉄人・衣笠が生前語っていた「山本浩二との本当の関係」”. 現代ビジネス. (2018年5月4日) 2021年5月18日閲覧。
- ^ “【勇者の物語〜「虎番疾風録」番外編〜田所龍一】(77)第4回ドラフト 最初に出ず 阪神、敢然と田淵指名”. 産経新聞. (2020年9月25日) 2021年5月18日閲覧。
- ^ 1人希望かなった広島1位指名
- ^ a b 山本浩二著『栄光の背番号8:これがオレの野球人生だ』(1986年、交通タイムス社)
- ^ 「中日、今夜も粘ったが 広島、サヨナラ勝ち」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1972年(昭和47年)5月12日付朝刊、11面。
- ^ 「ネット裏 山本浩、満塁は初体験」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1972年(昭和47年)6月11日付朝刊、11面。
- ^ 「山本浩(広島)が逆転満塁ホーマー」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1972年(昭和47年)6月11日付朝刊、11面。
- ^ 「山本浩、サヨナラアーチ 金城が16勝目」『北海道新聞』(縮刷版) 1974年(昭和49年)8月28日付朝刊、12面(スポーツ面)。
- ^ 「連続アーチの競演 山本浩 衣笠 パは太田幸、山田が誤算 序盤に猛攻、全セ先勝」『北海道新聞』(縮刷版) 1975年(昭和50年)7月20日付朝刊、12面(スポーツ面)。
- ^ a b 「8月MVPに広島の山本浩」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1975年(昭和50年)9月2日付朝刊、15面。
- ^ a b 「波乱のセ、全試合終わる 山本浩初の首位打者 最多勝に外木場 盗塁王大下」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1975年(昭和50年)10月22日付朝刊、15面。
- ^ a b 「最優秀選手 セ山本浩 パ加藤が初受賞 新人王は山口 セ、該当なし」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1975年(昭和50年)11月5日付朝刊、15面。
- ^ a b 「シリーズ表彰選手」『北海道新聞』(縮刷版) 1975年(昭和50年)11月3日付朝刊、12面(スポーツ面)。
- ^ “【白球つれづれ】広島が日本一、熱狂した日|株式会社フロムワン|2016年8月29日掲載|” (日本語). ベースボールキング. 2022年7月3日閲覧。
- ^ 「山本浩満塁13号 拙守巨人につけ込む」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1977年(昭和52年)5月23日付朝刊、17面。
- ^ 『北海道新聞』(縮刷版) 1977年(昭和52年)10月10日付朝刊、13面(スポーツ面)、広島対阪神25回戦の試合結果より。
- ^ 「ギャレット20号」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1978年(昭和53年)6月1日付朝刊、17面。
- ^ a b 「山本浩(本塁打王) 水谷(首位打者)が初 セも全日程終了」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1978年(昭和53年)10月12日付朝刊、17面。
- ^ 山本浩二 キャンプ地に愛妻慰問でニュー打法炸裂王 - ウェイバックマシン(2016年3月4日アーカイブ分)
- ^ 「山本浩サヨナラ2ラン セが勝ち越し パ、ロッテ勢が大活躍 球宴満開 8アーチ大乱舞」『北海道新聞』(縮刷版) 1979年(昭和54年)7月25日付朝刊、13面(スポーツ面)。
- ^ a b 「表彰選手」『北海道新聞』(縮刷版) 1979年(昭和54年)7月25日付朝刊、13面(スポーツ面)。
- ^ a b c 「防御率平松 最多勝は小林 王"無冠" 掛布が本塁打王 セ・リーグ全日程終了」『北海道新聞』(縮刷版) 1979年(昭和54年)10月26日付朝刊、16面(スポーツ面)。
- ^ “江夏の21球 “赤ヘル野球”軌道乗った1979年”. デイリースポーツ online (2022年7月14日). 2022年7月18日閲覧。
- ^ 「巨人"先手"も及ばず 山本浩が逆転の満塁22号 西本、鹿取打たれる 広島と11ゲーム差」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1980年(昭和55年)7月9日付朝刊、17面。
- ^ a b 「木田 史上初 新人王とMVP パ セ MVP 山本浩 新人王 岡田」『北海道新聞』(縮刷版) 1980年(昭和55年)11月5日付朝刊、15面(スポーツ面)。
- ^ 「二死満塁…2ラン振り逃げ 広島、痛いサヨナラ負け」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1981年(昭和56年)6月24日付朝刊、17面。
- ^ “お返し満塁弾、ウグイス嬢が赤面の珍事…阪神投手に起こった“災難””. AERA dot.(アエラドット) (朝日新聞出版). (2018年12月15日) 2023年1月22日閲覧。
- ^ a b 「山本浩 二年続き二冠 セ・リーグの全日程を終了 江川も両手に花 最多勝と最優秀防御率」『北海道新聞』(縮刷版) 1981年(昭和56年)10月15日付朝刊、15面(スポーツ面)。
- ^ 「ブリッグス3発 山本浩の満塁27号実らず」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1982年(昭和57年)8月7日付朝刊、17面。
- ^ a b c d e “山本浩二【後編】唯一無二の“第8戦”を最後に置いたバット/プロ野球1980年代の名選手”. 週刊ベースボールONLINE. (2018年9月10日) 2021年5月18日閲覧。
- ^ 山本浩二(広島) 1984年5…:今昔「安打製造機」 2000安打 写真特集:時事ドットコム
- ^ 山本浩二監督「我が道」特別版 第23回 6番降格、3試合干されて発奮 スポニチアネックス、2013年2月21日、
- ^ スポーツニッポン、古葉竹識の我が道、2016年11月26日
- ^ 【きょうは何の日】1986年9月11日 中国新聞
- ^ “気がつけば40年(17)外角低めの絶好球 山本浩二が東尾修から放ったバットマン人生集大成の一発|スポーツニッポン新聞社|2020年9月15日掲載|” (日本語). スポニチ Sponichi Annex 野球. 2022年7月3日閲覧。
- ^ 【セ・パ誕生70記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 Part.3 [1987年編] (週刊ベースボール別冊立春号)ベースボール・マガジン社、2020年、80頁
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- ^ 侍ジャパン新監督に関するお知らせ NPB公式サイト (2012年10月10日) 2015年4月15日閲覧
- ^ 侍ジャパン 監督、コーチ背番号決定のお知らせ NPB公式サイト (2012年11月13日) 2015年4月15日閲覧
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- ^ 高代延博 『WBC 侍ジャパンの死角』角川書店、2013年、220-226頁。
- ^ "療養中の山本浩二氏が解説復帰へ「30〜40分くらい散歩」田淵氏が明かす". デイリースポーツ. 神戸新聞社. 18 January 2020. 2020年2月7日閲覧。
- ^ "元広島OB 山本浩二氏「膀胱がん」と「肺がん」を告白 計7度の手術". デイリースポーツ. 神戸新聞社. 7 February 2020. 2020年2月7日閲覧。
- ^ 【掛布雅之さん】プロ野球歴代ベストナインを選んでもらった! - YouTube
- ^ 東京スポーツ連載『川口和久 Gキラーのダンディズム〈10〉』2008年4月23日3頁。
- ^ “川口和久 三振か、四球か。マンガのような投球の左腕/プロ野球1980年代の名選手”. 週刊ベースボールONLINE. (2018年12月8日) 2021年5月18日閲覧。
- ^ “江川卓氏、石橋貴明の「プロで最初に衝撃を受けた打者は?」に即答 「三振が取れない」:スポニチ”. スポニチ. 毎日新聞社 (2022年4月23日). 2022年4月23日閲覧。
- ^ a b プロ野球1980年代の名選手 山本浩二【前編】中距離打者から長距離打者への変貌/プロ野球1980年代の名選手 週刊ベースボール
- ^ ミスター赤ヘルの右打ちは芸術的。八重樫幸雄が打撃フォームを分析した
- ^ 山本浩二監督「我が道」特別版 スポニチ Sponichi Annex 野球
- ^ 番外編 女房のおかげで野球に専念できた
- ^ “落合博満さんが「やめてくれ~」と叫んだ日 スター選手が歌手にチャレンジした時代【増田護コラム】”. 中スポ. (2020年12月18日) 2021年5月18日閲覧。
- ^ 週刊プレイボーイ、集英社、2008年7月7日号、159頁
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- ^ “山本浩二氏、がん告白…壮絶1年間で7度手術 闘病乗り越え現場復帰 (3/3)”. SANSPO.COM. (2020年2月8日) 2021年5月18日閲覧。
- ^ “せんだみつお長女せんだるか、山本浩二元監督の三男と結婚 - 結婚・熱愛 : 日刊スポーツ” (日本語). nikkansports.com. 2022年11月1日閲覧。
- ^ “広島・菊池涼が10年連続10度目ゴールデングラブ賞!最多&連続受賞で山本浩二のリーグ記録に並んだ”. スポニチ (2022年11月14日 15:00). 2022年12月5日閲覧。
- ^ 「山本浩が月間最優秀に セ・リーグ」『北海道新聞』(縮刷版) 1978年(昭和53年)9月8日付朝刊、15面(スポーツ面)。
- ^ 「-6月の月間MVP- セ 山本浩 パ レオン」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1980年(昭和55年)7月8日付朝刊、17面。
- ^ 「表彰選手」『北海道新聞』(縮刷版) 1975年(昭和50年)7月20日付朝刊、12面(スポーツ面)。
- ^ 「スコアボード 山本、150号本塁打」『北海道新聞』(縮刷版) 1976年(昭和51年)5月8日付朝刊、13面(スポーツ面)。
- ^ 「広島・山本浩二外野手(二九)が1000試合出場」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1976年(昭和51年)10月6日付朝刊、17面。
- ^ 「山本浩、千本安打」『毎日新聞』(縮刷・関東版) 1977年(昭和52年)5月23日付朝刊、14面(スポーツ面)。
- ^ 「記録メモ(11日) 広島・山本浩が通算200号本塁打」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1977年(昭和52年)8月12日付朝刊、15面。
- ^ 「記録メモ(6日) 広島・山本浩二外野手(三一)が通算250号本塁打」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1978年(昭和53年)9月7日付朝刊、17面。
- ^ 「記録メモ 山本浩(広島)通算300本塁打」『北海道新聞』(縮刷版) 1980年(昭和55年)4月9日付朝刊、15面(スポーツ面)。
- ^ 「記録メモ(7日) 広島・山本浩二外野手(三三)が1500安打を達成」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1980年(昭和55年)9月8日付朝刊、17面。
- ^ 「記録メモ 山本浩(広島)通算1500試合出場」『北海道新聞』(縮刷版) 1980年(昭和55年)9月12日付朝刊、15面(スポーツ面)。
- ^ 出演者プロフィール 山本浩二|進め!スポーツ元気丸|広テレ!Web.広島テレビ.2017年11月27日閲覧。
関連項目[ソースを編集]
外部リンク[ソースを編集]
- 個人年度別成績 山本浩二 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
- 野球殿堂 山本浩二 - 公益財団法人野球殿堂博物館
- 県民栄誉賞 山本浩二(やまもと・こうじ) - 広島県ホームページ