クリストフ・エッシェンバッハ

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クリストフ・エッシェンバッハ
Christoph Eschenbach
Christoph Eschenbach (cropped).jpg
クリストフ・エッシェンバッハ
基本情報
生誕 (1940-02-20) 1940年2月20日(80歳)
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国ブレスラウ
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者

クリストフ・エッシェンバッハ(Christoph Eschenbach, 1940年2月20日 - )は、ドイツピアニスト指揮者

人物・来歴[ソースを編集]

生い立ち[ソースを編集]

ドイツシレジア地方の都市ブレスラウ(現ポーランドヴロツワフ)に生まれる。母マルガレーテ(旧姓ヤロス)は、出産と引き換えに亡くなった。ブレスラウ大学(現ヴロツワフ大学)の音楽学者だった父ヘルベルト・リングマンは、第二次世界大戦中にナチスの懲罰部隊に入れられ戦闘で命を落とした。孤児となったクリストフは、1946年、母の従姉妹であるヴァリドール・エッシェンバッハ(旧姓ヤロス)に引き取られる。

本人は次のように述べている。「悲惨な過去の生活のせいで口をきくこともできなくなっていたのである。ヴァリドール・エッシェンバッハはピアニストにして歌手、そして音楽教師で、夜遅くまでベートーヴェンシューベルトショパンラフマニノフバッハを弾いていた。私がまた口をきくことができるようになったのは、自分でも音楽を演奏したいか、と尋ねられて『はい』という言葉を発したときだった。」[1][2][3][4]

養母ヴァリドールにより音楽教育を受け、ピアノを学んだ。1950年ハンブルクに移り、スタンウェイ・コンクールで第1位。オイゲン・ヨッフムの推薦によりエリツァ・ハンゼンドイツ語版に師事した。11歳のとき、キールに公演に来たベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮するフルトヴェングラーの演奏に感動し、「その日から」指揮者を志す。指揮者になるためには他の楽器も、とヴァリドールはヴァイオリンを買い与え、ピアニストとしてのかたわら、その後15年間ヴァイオリンも習い続けた[5]1955年ケルン音楽大学に入学し、ハンス=オットー・シュミット=ノイハウスにピアノを学ぶ。1959年、ハンブルクに戻り再びエリツァ・ハンゼンに師事、ヴィルヘルム・ブリュックナー=リュッゲベルクドイツ語版のもとで指揮を学び始めた[6][7][8][9]

音楽キャリア[ソースを編集]

音楽的キャリアにおいては当初、優れたピアニストとして国際的に名声を馳せた。日本においても、音大ピアノ科生のアイドル的存在であった。モーツァルトのソナタや、ヘルベルト・フォン・カラヤン、ベルリン・フィルとのベートーヴェンの協奏曲の録音などがある。また教則本バイエルを初めとするツェルニーソナチネアルバムソナタアルバムなどの卓抜な演奏録音でも知られる。

ジョージ・セル、カラヤンなどの薫陶を受け、1970年代より指揮者に転進した。客演キャリアの後、北ドイツ放送交響楽団音楽監督として手腕を発揮した。一時期、アメリカでフィラデルフィア管弦楽団、フランスでパリ管弦楽団という欧米トップランクの両オーケストラの音楽監督を兼任した(北ドイツ放送響の最終シーズンは3団体兼任)。また、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン音楽祭ラヴィニア音楽祭パシフィック・ミュージック・フェスティバルなどの音楽祭の芸術監督も務めたほか、2007年メトロポリタン歌劇場来日公演でジェームズ・レヴァインの代役としてオペラを振るなど、幅広く活動している。2010年のシーズンよりワシントンD.C.ナショナル交響楽団及びジョン・F・ケネディ・センターの音楽監督を務めた。2019年からベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団首席指揮者。

ドイツ系指揮者としては、クルト・マズアクリストフ・フォン・ドホナーニニコラウス・アーノンクールらのベテラン世代と、これから約20年下がったフランツ・ウェルザー=メストクリスティアン・ティーレマン準・メルクルらの若手世代の中間、ドイツ人払底が問題視された世代に属するが、孤軍奮闘的に大きなポストを次々に獲得した。

脚注[ソースを編集]

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注釈・出典[ソースを編集]

  1. ^ Eschenbach, Christoph (2007年). “Die Kindheitsjahre und meine ersten Begegnungen mit der Musik” (ドイツ語). cristoph-eschenbach.com. 2014年7月8日閲覧。 “Während einjähriger Rekonvaleszenz, einer Zeit in der ich durch die erschlagenden Eindrücke auch die Sprache verloren hatte, hörte ich zum ersten Mal Musik: Frau Wallydore, Pianistin und Sängerin, gab Unterricht und spielte bis spät in die Abende Beethoven, Schubert, Chopin, Rachmaninow, Bach...Meine Sprache kam wieder mit dem Wort "Ja" auf die Frage, ob ich selbst Musik machen wolle: Die Eindrücke forderten Ausdruck.”
  2. ^ Eschenbach, Christoph (2007年). “幼少期と最初の音楽体験” (日本語). christoph-eschenbach.com. 2014年7月8日閲覧。
  3. ^ Biografie & Fotos 1940-1950” (ドイツ語). christoph-eschenbach.com (2007年). 2014年7月8日閲覧。
  4. ^ 年譜および写真 1940-1950” (日本語). christoph-eschenbach.com (2007年). 2014年7月8日閲覧。
  5. ^ 吉村(2000年)、pp.23-25。
  6. ^ Eschenbach, Christoph (2007年). “Wie die Musik zu meiner Lebensbestimmung wurde” (ドイツ語). cristoph-eschenbach.com. 2014年7月8日閲覧。
  7. ^ Eschenbach, Christoph (2007年). “音楽がわが人生” (日本語). cristoph-eschenbach.com. 2014年7月8日閲覧。
  8. ^ Biografie & Fotos 1950-1960” (ドイツ語). christoph-eschenbach.com (2007年). 2014年7月8日閲覧。
  9. ^ 年譜および写真 1950-1960” (日本語). christoph-eschenbach.com (2007年). 2014年7月8日閲覧。

参考文献[ソースを編集]

外部リンク[ソースを編集]

先代:
クリストフ・シュテップ
ラインラント=プファルツ州立フィルハーモニー管弦楽団
首席指揮者
1979年 - 1983年
次代:
レイフ・セーゲルスタム
先代:
ゲルト・アルブレヒト
チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団
首席指揮者
1982年 - 1986年
次代:
若杉弘
先代:
イヴァン・フィッシャー
ワシントン・ナショナル交響楽団
音楽監督
2010年 -2016年
次代:
ジャナンドレア・ノセダ