ノート:邪馬台国

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回答です。『邪馬台国について「九州に存在する」ことが明白となっている』旨の記載について[ソースを編集]

⇒⇒⇒「文献上の明白」ですね。遺物の発見が望まれます。

尚、ウィキペディアの「邪馬台国」では、畿内説の基本論拠は「文献上」の根拠はありません。一方、九州説の基本論拠は「文献上」、中国の正史で「邪馬台国」の記述がある北史の中から、旅程日数に関しての弱点は解消されております。今までの議論の積み上げから12,000里はもともと「九州説」の根拠とされておりました。「文献上」は、北史においては『其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。』とあり、続けて『又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月、至邪馬臺國、即倭王所都。』と説明しております。北史では、倭国の領域を「東西五月行、南北三月行」と説明した上で、続けて、邪馬臺國への行程を「南へ二月」(水行二十日、水行十日、陸行一月)と説明しております。北史では「東西五月行」の概念がある中で「東」とは言っておりません。

ウィキペディア「邪馬台国」の中では、下記の基本論拠から「文献上」は九州になるとの意味です。下記はウィキペディア「邪馬台国」の基本論拠です。「文献上」に着目して、基本論拠の記事に注目してください。畿内説に「文献上」の基本論拠がない一方、九州説に「文献上」の基本論拠があり、かつ文献上の弱点も解消され、「文献上においては九州」となっております。


●また、従来ですと「末羅国」や「伊都国」や「奴国」や「不弥国」などは「九州」と考えられております。「南」へ水行20日、「南」へ水行10日、陸行1月だけですと、確かに九州の南、太平洋の「沖縄県付近」の可能性はあると思います。 しかし、南北三月行の概念(出典元は北史・隋書)や12,000里(出典元は魏志・北史他)の概念があれば、九州の南「沖縄付近」までは行かない、ということです。方角は「南」(出典元は魏志・北史・梁書)

●逆に、教えて下さい。九州に到着しない文献上の理由を。それとも太平洋のど真ん中、沖縄に行く?文献上の理由を。


邪馬台国畿内説[ソースを編集]

邪馬台国畿内説には、琵琶湖湖畔、大阪府などの説があるが、その中でも、奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡(まきむくいせき)を邪馬台国の都に比定する説が、下記の理由により有力とされる。

  1. 箸墓古墳の付近から出土した土器の考古学的年代決定論で、その始期や変革期が倭人伝の記述と合致するというデータがあること。[1]
  2. 吉備、阿讃播など広範な地域起源の文化に起源を求めうる前方後円墳が大和を中心に分布するようになり[2]古墳期の時代が下るにつれて全国に広がっていること(箸墓古墳ほか)。
  3. 北九州から南関東にいたる全国各地の土器が出土し、纏向が当時の日本列島の大部分を統括する交流センター的な役割を果たしたことがうかがえること。[3]
  4. 日本書紀神功紀では、魏志と『後漢書』の倭国の女王を直接神功皇后に結び付けている。『晋書』帝紀では邪馬台国を「東倭」と表現し、『隋書』では、都する場所ヤマトを「魏志に謂うところの邪馬臺なるものなり」と同一視していること[注釈 1]

逆に、畿内説の弱点として上げられるのは次の点である。

  1. 倭国の産物とされるもののうち、弥生後期までの鉄や絹は北九州からのみ出土する。
  2. 弥生後期までの銅鏡や刀剣の出土量は北九州のほうが圧倒的に多い。
  3. 「魏志倭人伝」に記述された民俗・風俗が温暖な南方系の印象を与え、南九州を根拠とする隼人と共通する面が指摘されている。
  4. 「魏志倭人伝」の記述は北部九州の小国を詳細に紹介する一方で、畿内説が投馬国に比定する近畿以西に存在したはずの吉備国出雲国の仔細には全く触れられておらず、近畿圏まで含む道程の記述が全く欠けている。
  5. 一大率は北部九州に所在する伊都国に常に「駐」したと倭人伝にあり、畿内から伊都国まで大きな距離があるのが不自然。
  6. 「魏志倭人伝」を読む限り、邪馬台国は伊都国や奴国といった北九州の国より南側にあること。[注釈 2]

かつて、畿内説の重要な根拠とされていたが、今は重要視されていない[要出典]説は以下である。

  1. 三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏皇帝から賜った100枚の鏡であるとする説 - しかし、既に見つかったものだけでも400枚以上になること、中国社会科学院考古学研究所長王仲殊が「それらは漢鏡ではない」と発表したことなどから、九州説の側からは「三角縁神獣鏡は全て倭で複製されたもので、卑弥呼の鏡ではない」との議論が提案された。なお2015年に中国において少数の三角縁神獣鏡が発見された事から、オリジナルが漢鏡であるという説もある。
  2. 邪馬台国長官の伊支馬(いしば)と垂仁天皇の名「いくめ」の近似性を指摘する説 - 大和朝廷の史書である記紀には、卑弥呼の遣使のこと等具体的に書かれていない。田道間守の常世への旅の伝説を、遣使にあてる説もある。

邪馬台国九州説[ソースを編集]

邪馬台国九州説では、福岡県の糸島市を中心とした北部九州広域説、福岡県の大宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、熊本県の阿蘇神社を中心とした阿蘇カルデラ[4]、宮崎県の西都原古墳群など、ほとんど九州の全域に渡って諸説が乱立している。その後の邪馬台国については、畿内勢力に征服されたという説と、逆に東遷して畿内を制圧したとの両説がある[注釈 3]。 一部の九州説では、倭の五王の遣使なども九州勢力が独自に行ったもので、畿内王権の関与はないとするものがある[注釈 4]現代では古田武彦などによる九州王朝説がある[注釈 5]

邪馬台国が九州にあったとする説は、以下の理由等による。

  1. 帯方郡から女王國までの12,000里のうち、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里使っていることから、残り1,500里(佐賀県唐津市に比定される末盧國から伊都國まで500里の距離の3倍)では短里説をとれば邪馬台国の位置は九州地方北部にかぎられること[注釈 6]
  2. 九州北部に比定される伊都国から、邪馬台国への行程において、投馬国や邪馬台国への旅程日数を合算しても「2カ月」であり、方角が「南」であるため。(北史・隋書・旧唐書・新唐書とも、倭国は南北の旅程が3カ月はかかると述べており、「南行2月」は九州内部に収まるため[注釈 7]
  3. 邪馬台国と対立した狗奴国を熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられること[注釈 8]

逆に、九州説の弱点として上げられるのは次の点である。

  1. 魏から女王たちに贈られた品々や位が、西の大月氏国に匹敵する最恵国への待遇であり、小領主へ贈られたものとは考えにくく[注釈 9]奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸といった規模の集落は、当時の日本の人口から考えて大きすぎるとする説がある。しかし例えば奴国は1世紀に後漢に朝貢し金印を授与される程の人口と国力があったのでこの説は当たらないとする意見もある。
  2. 中国地方や近畿地方に、大きな規模の古墳や集落が存在していること。これらの古墳築造の開始時期は4世紀以降とする説が有力だが、放射性炭素年代測定などの結果では一部は3世紀中葉に遡るという解釈も出ていること[5]

かつて、九州説の根拠とされていたが、今は重要視されていないものは以下のものである。

  1. 近畿地方から東海地方にかけて広まっていた、銅鐸による祭祀を行っていた銅鐸文明を、「魏志倭人伝」に記載され、『日本書紀』にも著される(剣)、鏡、勾玉の、いわゆる三種の神器を祭祀に用いる「銅矛文明」が滅ぼしたとされる説。
    しかし、発掘される遺跡の増加に伴い、「銅鐸文化圏」で銅矛や銅剣が、吉野ヶ里遺跡のような「銅矛文化圏」で銅鐸やその鋳型が出土したことから、今ではあまり重要視されなくなっている。
  2. 魏志倭人伝中で邪馬台国の埋葬方法を記述した『有棺無槨』を甕棺と見なす見解に基づき、北九州地方に甕棺が多数出土していること[注釈 10]

かつて、九州説の弱点とされていたが、今では弱点とされていないものは以下のものである。

  1. 旅程記事について、南行二月でも九州内に収まる。北史隋書では『其國境、東西五月行、南北三月行、各至於海。』と記載されており、倭国は南北の旅程が3カ月はかかると考えられている。北史・梁書・魏志では、南至投馬国水行20日+南至邪馬台国水行10日・陸行1月=「南行2月」であり、倭国の領域内に収まっている旅程日数(南北三月行の範囲内)[注釈 11]である。尚、倭国について、旧唐書では『依山島而居。東西五月行、南北三月行』、新唐書でも『島而居、東西五月行、南北三月行』と説明している。
⇒かつては、次のように弱点として考えられていた。「連続読みでは九州内に収まりきらないので、放射線式の読み方に従う必要がある。」
「①畿内説の中にも放射式の読み方を採用している論者がいるので、これ自体は九州説の決め手ではない。」
「②放射線式読み方が正当化されるには、「到」「至」の使い分けがされているときは、そのように読むべきであるという当時の中国語の決まりがなければならないが、魏志倭人伝の内容をほぼ引き写している梁書では、そのような使い分けはされておらず、使い分けに特別な意味があったとは思えない。」
「③仮に放射線式の読み方を受け入れると、邪馬台国は伊都国の南水行十日陸行一月の行程にあるが、九州を大回りして水行し南下する意味に捉えたとしても、邪馬台国の位置が中南部九州内陸にあることとなり、後の熊襲の地に邪馬台国があり、その南に狗奴国が存在することになる。これについては、南水行十日陸行一月は楽浪郡からの距離であるとの説がある。」

邪馬台国の所在地[ソースを編集]

北史においては『其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。』とあり、続けて『又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月、至邪馬臺國、即倭王所都。』と説明している。北史では、倭国の領域を「東西五月行、南北三月行」と説明した上で、邪馬臺國への行程を「南へ二月」と説明している。そのため、「末盧國」から「北史」の記述どおりに日数、方角、距離を辿ると、邪馬台国は「九州内」に所在することになる。末盧國から東南~南方面[注釈 12]に、2000里、二月行で邪馬台国。

また、魏志倭人伝[注釈 13]を、忠実に厳密に読んだ場合、「邪馬台国」は九州内に収まる。魏志倭人伝では、方角と旅程日数が『南至投馬國水行二十日 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月』、総距離は『自郡至女王國 萬二千餘里』と記載されている。総距離は、12,000里であり、旅程日数が2月でも、総距離はあくまでも12,000里である。帯方郡から末盧國までは、10,000里であるため、末盧國から邪馬台国までは残2,000里である。帯方郡から不弥国までは10,700里であるため、不弥国から邪馬台国までは残1,300里となる。連続式で、魏志倭人伝の記述を、厳密に忠実に読むと、不弥国から邪馬台国までの方角・日数・距離は「南」へ「2月」、「残1,300里」となる。2月かかるが、距離はあくまでも「残1,300里」である。(厳密に解釈すれば、約22里/日の行程スピードである。)魏志倭人伝における邪馬台国の所在地は、厳密に忠実に読んだ場合、「九州内」となる。

尚、隋書においては、『古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里』と述べているが、倭国の領域について『其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。』と説明している。[注釈 14]

ウィキペディア「邪馬台国」の中では、「文献上、九州に存在する」内容となっております。

  1. ^ 『纏向:奈良県桜井市纒向遺跡の調査』(奈良県立橿原考古学研究所編1976)など
  2. ^ 『日本列島における国家形成の枠組み』寺澤 薫(纏向学研究センター研究紀要2013所収)など
  3. ^ 寺澤 前掲など
  4. ^ 石原洋三郎邪馬台国阿蘇カルデラ台地説
  5. ^ 理化学的年代に懐疑的な研究者も少なくない。年輪年代学では原理的に遺跡の年代の上限しか決定できない上に、まだ専門家の数が少なく、日本の標準年輪曲線は一つの研究グループによって作成され、正確データの公表すらなされておらず追試検証が行われていないためである。放射性炭素年代測定法にしても、測定資料をとることは遺物を損傷することでもあり機材も必要なので追試検証は行われない。
  1. ^ 九州説では、書紀の編纂に当たった当時の大和朝廷が、参照した中国の史書(魏書、後漢書など)にある古代国家の記述を書紀に組み入れたにすぎないとする。
  2. ^ これに対して、北九州の国々の行程を表記するにあたっても、すでに60度ほど南にずれているからもともと正確ではない、あるいは、倭国が会稽東冶の東海上に南に伸びて存在するという誤った地理観に影響されたものである混一疆理歴代国都之図[1]」の影響下にある地図には、日本を右回りに傾かせて描かれたものがある(「日本地図」の項目も参照のこと)などの意見がある。ただし混一疆理歴代国都之図については、15世紀に原図を作った朝鮮人が「行基図」を誤って右回りにはめ込んだにすぎず、古くからの地理観とはいえないと主張する説や、他に15世紀以前に日本を右回りに回転させたと証明できる地図が存在するわけでもなく、『隋書』では正しい地理観に基づいて行程を記述しているので、根拠とはしがたいという反論がある。
  3. ^ 後者の東遷説は神武東征をその事実の反映と見る立場が多いが、『隋書』の記述がすでに現存する記紀神話とは相当異なっている可能性があるとして、神話を根拠とすることは受け入れがたいとする意見もある。神武東征とは関係ないとする説もある。
  4. ^ 一部で誤解が流布しているが、江戸時代後期の国学者による「偽僣説」(九州勢力が朝廷を僭称したとする説。本居宣長『馭戎概言』、鶴峯戊申『襲国偽僣考』、近藤芳樹『征韓起源』など)は九州勢力が独自に外交を行ったとはしているものの、あくまで「邪馬台国は大和、卑弥呼は神功皇后」であって、九州勢力はそれを僭称したのだという説である。
  5. ^ 日本列島を代表する王朝は一貫して九州にあり、白村江の戦い以降に衰亡したとする説。一部を除いて学術論文として発表された説ではなく、学会では議論の対象とされていない。
  6. ^ 三宅米吉は、12,000里は里程のわかっている不弥国までの距離であるとし、山田孝雄は、これは一部不明のところのある現実の距離をあわせたものではなく、単に狗邪韓国までの7,000里と倭地の周旋5,000里を合算したものに過ぎないとする。九州王朝説を唱えた古田武彦は、「正確を期するため同じ行程を距離と掛かる日数とで二重に標記している」とする読み方を提唱している。
  7. ^ 北史「其國境東西五月行、南北三月行、各至於海」、北史「又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月、至邪馬臺國、即倭王所都」、石原洋三郎によれば、“南北三月行”をはじめ、古代中国人の感覚として、旅程日数が誇大に記載されているとのこと。
  8. ^ 畿内説の中には狗奴国を東海地方とする説がある。この説では狗奴国を桑名加納[要曖昧さ回避]久努国造久能などの東海地方に当てる説、狗古知卑狗を菊川と関係付ける説がある。畿内説の内藤湖南は、彼が邪馬台国の時代に近いと考える景行天皇の時代に、朝廷と熊襲が激しく衝突したことから狗奴国を熊襲、「狗古知卑狗」を菊池彦に当てている。そうすると、ここでは方角が正しいことになるが、彼は狗奴国に関する記述は旅程記事とは別系統に属するから、問題はないという。吉備説・出雲説・東四国説では狗奴国を河内の勢力と見ている。
  9. ^ 九州説ではに圧力をかけるための厚遇であったとする。また前述の古田武彦は、公孫氏政権からいちはやく魏に乗り換えた功績に対する厚遇であるとする。
  10. ^ 3世紀当時、すでに甕棺は稀にしか用いられていない。
  11. ^ 石原洋三郎によれば、九州北部から“南”へ二月進んでも、未だ九州内に収まっているとのこと。九州の福岡県北岸から、鹿児島県の南岸までが三月行という古代中国人の旅程感覚が読み取れるためである。
  12. ^ 「方向感覚」では東~南。
  13. ^ 三国時代後の西晋陳寿が著者。現在、残っている最古の原本は南宋の時代に作成されたと言われている紹興版。
  14. ^ 隋書『倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居』とあり、魏志倭人伝の「狗邪韓国~末盧國」の距離と同様、朝鮮から日本までの距離を「水陸三千里」としている上で『其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。』と説明している。

邪馬台国の卑弥呼女王に従った周辺国の現存地名からの推定結果[ソースを編集]

文字が伝わる以前から言葉で地名が言われていたとして、現存地名と魏志倭人伝に記された国名が近いものを調べてみた結果です。 ①斯馬国:シマ国ーーー滋賀 又は 志摩   ②巳百支国:シハクキ国ーーー信楽  ③都支国:トキ国ーーー土佐 (高知県) ④弥奴国:ミナ国ーーー美濃(美濃市)     ⑤好古都国:コオコト国ーーー甲頭倉 又は 甲田 (彦根付近) ⑥不呼国:フコ国ーーー福井(福井県)      ⑦姐奴国:サナ国ーーー佐那河内村(徳島県) ⑧対蘇国:ツイソ国ーーー津(津市)       ⑨蘇奴国:ソナ国ーーー泉佐野(大阪府)又は 曾爾村(和歌山県) ⑩呼邑国:コオウ国ーーー御坊(和歌山県)   ⑪華奴蘇奴国:カナソナ国ーーー金沢(金沢市) ⑫鬼国:キ国ーーー紀の川市(和歌山)      ⑬為吾国:イゴ国ーーー伊賀      ⑭鬼奴国:キナ国ーーー岐南町(岐阜県)又は 嬉野町(三重県) ⑮邪馬国:ヤマ国ーーー青山町または白山町または山室(三重県)       ⑯躬臣国:キウシ国ーーー貴志川町(和歌山) ⑰巴利国:ハリ国ーーー名張市(三重県)     ⑱支惟国:キイ国ーーー紀伊長島町(三重県) ⑲烏奴国:ウナ国ーーー上野市(三重県)     ⑳奴国:ナ国ーーー野迫川村(奈良県)     21狗奴国:クナ国ーーー熊野市 以上の通りで船で不弥から投馬(福山又は投松)経由難波方面に行く途中で③、⑦や⑨、⑩、⑯の存在を聞き、陸路邪馬台国へ行く道中にその他の 女王への恭順国及び対立国(狗奴国)の存在を聞きだしたと思われる。結局現在の近畿地方一帯が卑弥呼の勢力圏であったと思われ、長い歴史 の中で近畿圏が成り立ったその起点のように思います。 記:岩田 彬 箕面市外院在 --以上の署名の無いコメントは、119.25.4.218会話/Whois IPv4IPv6)さんが 2018年12月24日 (月) 06:18 (UTC) に投稿したものです。[返信]