書評『沖縄の〈怒〉』

『沖縄の〈怒〉』日米への抵抗

著者:ガバン・マコーマック+乗松聡子
発行:法律文化社
発行年月:2013年4月

「国外」に住む著者2人が「沖縄問題を伝える」意味はなにか。本書を読みながらそのことばかり考えていた。私自身生まれ育った「県外」から10年前に沖縄へ移り住んだ理由のひとつが、「沖縄問題を知るにはそこで生活しなければ分からないだろう」というものだったからだ。そして「沖縄の〈怒〉」が沸点を超えてしまった今、「沖縄問題を伝える」ことそれ自体の無効さという粗いヤスリで顔をこすられながら、何かを書くという行為の〈無〉意味を自問している。

大田昌秀氏が帯で「鋭利な頭脳と冷徹な視点で沖縄問題を縦横無尽に剔抉」と薦めているのは、本書のクオリティとして正しい。「国外」の共著者ゆえに世界的な視野で書かれている第2章 日米「同盟」の正体、第5章 鳩山の乱、第8章 同盟「深化」などはその好例である。「仮に現在の沖縄のような抵抗が、米国や日本が気に入らない外国(中国、北朝鮮、イラン、シリア等)で起こっていたとしたら、両国政府やメディアは「市民による勇敢で英雄的な民主運動」として注目し、絶賛していたであろう」(終章 展望)という指摘は慧眼である。そうかと思えば、沖縄の人々の小さな声をすくい取った内容も劣らず本書を深いものにしている。

それにしてもタイトルを「沖縄の〈怒〉」と素っ気無くしなければならない理由はなんだろうか。それは「沖縄の人々は、選挙、住民投票、座り込みや阻止といった直接行動、自治体の決意、党派を超えた県民大会、訴訟、世論調査、指導者たちによる声明、東京やワシントンへの直訴、国際機関への訴えなど、ありとあらゆる方法を使って辺野古代替基地の建設を許さないという民意を示してきた」(終章 展望)にもかかわらず、日本という国の多数決民主主義でごり押しされようとしているからに他ならない。いうまでもなく、その多数決の主体は私の属する「日本人」である。

冒頭で「国外」「県外」と区分けされた言葉は、沖縄の政治状況で過度の意味を持ってしまった。2010年の県知事選を分岐点として、本来が「撤去」であったはずの普天間基地の「移設」という選択肢として県民は求められ、「県外」を掲げた現職候補を選んだ。本書ではここまで書かれている。

その後「県外」へのベクトルは「オール沖縄」という政治的標語に上塗りされた。それが「日本」に対してまとまる単位として新しい抵抗のかたちを表象している。地元紙の社説で堂々と主張され、「今どき保守とか革新とかいっている時代ではない」と市井の声も聞こえてくる。そのとき私は土着にまみれながら別の言葉を探している。

本書では「普天埋移設問題」から世界全体が学べることとして次のように書かれている。

それは人間が「市民」として生きるということはどういうことなのか、ということである。それは自分たちのことは自分たちで民主的に決め、基本的人権が保障された平和な暮らしを送る権利を行使しようとする市民の姿(以下略)

「市民」とは状態(常態)ではない。その人が困難に直面し、それに対して主体的に動き出すことで「市民になる」。「オール沖縄」が「市民」の発露なのか、あるいはそれを覆い隠す政治的意図が含まれるものなのか。それに対するクリティーク(批判)が今は欠かせない。

(西脇尚人)

関連サイト:
Peace Philosophy Centre
The Asia-Pacific Journal: Japan Focus

要チェック!関連イベント情報:
両著者と学生・市民との対話集会が開催されます
沖縄の〈怒り〉をどう伝えるか

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