私の英語勉強法/稲田嵯裕里さん(字幕翻訳家)
The Japan News表現の引き出しを多く持つ
字幕翻訳は、入り組んだセリフを限られた字数の中で表現する、職人芸が必要な作業だ。稲田嵯裕里さんは、この道25年を超えるベテランで、多くの有名作品も担当してきた。字幕翻訳のコツを「いかに情報を捨てるか」と話す稲田さんは、英語好きで、数学の授業中にも英語の教科書を読んでいる生徒だったという。
◆計算された「どんぶり勘定」自身が字幕翻訳を手がけた「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」が、今年のアカデミー賞で作品賞など4部門受賞を果たした。ほかにも「6才のボクが、大人になるまで。」が助演女優賞を獲得し、「フォックスキャッチャー」も多部門でノミネートされるなど、うれしいニュースが相次いだ。「自分の子供が賞をもらったようなもの。もう引退してもいいくらい」と喜ぶ。
1989年に字幕翻訳家としてデビューして以来、アニメからコメディー、社会派作品まで、様々なジャンルを手がけてきた。
字幕を読みやすくするため、横書きの場合は13文字か14文字で2行以内に収めるという字数制限がある。また、俳優がスクリーンの中で話している間に画面から消えるように、セリフ1秒につき4文字が情報量の目安となる。たとえば、I met him in New York yesterday. というセリフがあったとして、これをそのまま「私は彼と昨日ニューヨークで会った」と訳したのでは長すぎる。前後のやりとりから、「彼に会った」と訳すこともあれば、「昨日だよ」と表現することもある。
一見ごくシンプルな訳にも、緻密な字数計算が隠されている。セリフに込められた意味を十分に理解した上で、字数に収まらない情報は潔く捨てるのが字幕翻訳のコツだ。「計算を尽くした『どんぶり勘定』のようなもの」だと思う。
10年ほど前に、あるアニメ映画の訳にあたった際は、仕事が一段落した後に映画会社から「最近の中・高校生は文字を読むスピードが落ちている。セリフ1秒に対し3.5文字に減らしてほしい」と注文が付いたことがある。大した差にならないように思えるが、全体で1割以上分量を減らさなければいけない。どのようにつじつまを合わせるか、大変な経験をした。
訳語は、文字にした際の視覚的な印象にも気を配る。たとえば、最近担当した映画で、とあるセリフを「よくそんなこと言えるな」と訳した。ところが、改めて眺めてみるとひらがなが続き、読みづらい。そこで、「よく」と「そんなこと」の間を半角スペースを入れ、「よく そんなこと言えるな」としたが、今度は間が抜けた印象を与えてしまう。悩んだ末、最終的に「そんなこと よく言えるな」とした。
わずかな違いに思えるが、理解するまでゆっくり読むことができる本など活字媒体と違う。「映画はどんどん次のシーンに進む。字幕は見た瞬間にパッと分からないといけない」
「長い年月と高い制作費をかけた作品が、海の向こうから日本にやってきて、そのバトンを最後に受け取るのが翻訳者。監督の意図をできるだけ正確に伝えたい」と気を引き締める。
◆自由に勉強を楽しむ
徒歩圏内に映画館が何軒もある環境に育ち、洋画は生活の一部だった。子守を面倒に思った父親に、時間つぶしでよく映画館へ連れて行かれた。
先生に恵まれたこともあり、英語は大好きな教科になっていった。苦手な数学の時間にこっそり英語の教科書を開いて読んでいる学生だったという。新しい教科書が配られると、その日のうちに最後まで目を通した。「まるでファッション雑誌を読むような感覚だった」
とはいえ、基礎をコツコツ勉強するタイプでは決してなく、高校時代にはサンテグジュペリの「星の王子さま」を英語版で読むなど、自分の興味があることを最優先にして学んだ。
だが、何か分からないことがあると、すぐ職員室の扉をたたいて積極的に質問した。中学教師に、「まるで自分の家のように職員室に入ってくる」とあきれられたこともあった。「教えるプロがいるのに使わないのは損でしょう」
大学卒業後、海外書籍の輸入会社で秘書業務に携わる傍ら、外国のファッション雑誌のコラムを日本の雑誌向けに翻訳していた。およそ2年後に退社し、ファッション・カメラマンのマネジャーを経て、映像制作・配給を手がける東北新社で翻訳チェックのアルバイトを始めた。
1日2、3本の映画を担当し、戸田奈津子さんをはじめ先達の翻訳をチェックし、技術と英語力を磨いた。平均して月60~80本の映画を見る生活を2、3年続けた。「この時期が一番勉強になった」と振り返る。
また、英語力をブラッシュアップしようと、英会話を習い始めた。家庭教師に付こうと思ったが、つてがなかったため、電話帳をめくってカタカナの名前の人に片っ端から電話をかけた。
◆書を読め、町に出よ
字幕翻訳にはある程度の英語力は必須だが、重要なのはむしろ日本語力だという。たとえば、No one knows. という一見ありふれたセリフにも、「誰も知らない」という直訳だけではなく、場面に応じて「神のみぞ知る」や「風に聞け」など様々な訳が考えられる。「表現の引き出しをたくさん持たないといけない。そのためには、日本語の本をたくさん読むこと」という。
様々なものに対する豊かな感性を養うことも重要だという。「家の中にこもっていないで外に出て、多くの友達を作りいろいろな話をする」ことを勧める。
最近は、若者を中心に吹き替え版を好む人が増えたが、字幕版には役者の生の声を楽しめるという利点がある。「家事をしながら見ることもあるテレビドラマと違って、劇場ではやっぱり役者の生の声が聞きたいでしょ」
デビューして四半世紀が過ぎたが、一字一句の訳に頭を悩ませるのは駆け出しのころと変わらない。完成作品をスクリーンで見て、「ここを直せばよかった」と後悔することもしょっちゅうある。
理想は、観客に字幕があることを忘れさせてしまう翻訳だ。そのために、今日も「どんぶり勘定」に頭を悩ませる。
(並木大)
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いなだ・さゆり 福岡県大牟田市生まれ。成城大学芸術学科卒。1989年、SF映画「ブロブ 宇宙からの不明物体」で字幕翻訳家デビュー。代表作に、コメディー「アダムス・ファミリー」、アニメ「ファインディング・ニモ」など。最近手がけた作品では、米ヒップホップグループの伝記的作品「ストレイト・アウタ・コンプトン」が12月に公開される。Speech