昭和天皇

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昭和天皇
昭和天皇
1935年

在位期間
1926年12月25日 - 1989年1月7日
昭和元年12月25日 - 昭和64年1月7日
即位礼 1928年(昭和3年)11月10日・於京都御所
大嘗祭 1928年(昭和3年)11月14日15日
元号 昭和 : 1926年 - 1989年
追号 昭和天皇
1989年(平成元年)1月31日追号勅定
首相
先代 大正天皇
次代 今上天皇

在位期間
1921年11月25日 - 1926年12月25日
大正10年11月25日 - 大正15年12月25日
天皇 大正天皇
首相

誕生 1901年(明治34年)4月29日22時10分
日本の旗 日本 東京府東京市赤坂区
(現・東京都港区赤坂)、青山御所
崩御 1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分
日本の旗 日本 東京都千代田区吹上御苑 吹上御所
大喪儀 1989年(平成元年)2月24日、於新宿御苑
陵所 武蔵野陵
裕仁
1901年(明治34年)5月5日命名
別称 昭和帝
幼称 迪宮(みちのみや)
若竹
元服 1919年(大正8年)5月7日
父親 大正天皇
母親 貞明皇后
皇后 香淳皇后(良子女王)
1924年(大正13年)1月26日大婚
子女
皇居 宮城・皇居
栄典 大勲位菊花章頸飾
Order Chrysantemum Sash.svg
学歴 東宮御学問所修了
副業 生物学者
親署 昭和天皇の親署
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昭和天皇(しょうわてんのう、1901年明治34年〉4月29日 - 1989年昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇[注釈 1](在位:1926年昭和元年)12月25日 - 1989年(昭和64年)1月7日)。

幼少時の称号迪宮(みちのみや)・裕仁(ひろひと)。お印若竹(わかたけ)。

目次

概要[編集]

歴代天皇の中で(神話上の天皇を除くと)在位期間が最も長く(約62年)最も長寿(宝算87)である。

大日本帝国憲法が規定する「國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬立憲君主制における天皇」としてポツダム宣言受諾決定などに大きく関与した。1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法が規定する「日本国の象徴かつ日本国民統合の象徴である天皇であり国政に関する権能を有しない」とされている。しかし占領期にはGHQ総司令官ダグラス・マッカーサーと会見などを行ない独自の政治的影響力を保持した。主権回復後には象徴天皇として皇室外交を行った。

またヒドロ虫(ヒドロゾア)・変形菌(粘菌)などを研究する生物学研究者でもあった。

生涯[編集]

少年時代[編集]

旭日旗を持つ、迪宮裕仁親王
お印に選ばれた若竹

1901年(明治34年)4月29日(22時10分)東京府東京市赤坂区青山(現:東京都港区元赤坂)の青山御所(東宮御所)において明治天皇皇太子・嘉仁親王(後に践祚して大正天皇)と節子妃(後に立后して貞明皇后)の第一男子として誕生。身長は168(約51cm)、体重800(3000g)。その後、翌年の7月末に匐行し、8月初めに摑まり立ち、11月中旬には自分で立ち11月末には何歩か歩んでいる[1]

明治天皇が文事秘書官・細川潤次郎に称号・諱の候補をいくつか挙げさせて選定し出生7日目(5月5日)に明治天皇が「称号を迪宮(みちのみや)・諱を裕仁(ひろひと)」と命名している。称号は「迪宮」「謙宮」の二候補の中から、諱は「裕仁」「雍仁」「穆仁」の三候補の中からそれぞれ選んでいる。「迪」は『書経』の「允迪厥徳謨明弼諧(允(まことに)に厥(そ)の徳を迪(おこな)へば謨明(ぼめい、民衆のこと)は諧(とも)に弼(たす)けむ)」「恵迪吉従逆凶(迪に恵(したが)へば吉にして、逆に従へば凶なり)」に、「裕」は『易経』の「益徳之裕也(益は徳の裕なり)」、『詩経』の「此令兄弟綽綽有裕(これ、兄弟の綽綽にして裕あり)」、『書経』の「好問則裕自用則小(問ふを好めば則ち裕に、自ら用(こころ)みれば則ち小なり)」、『礼記』の「寛裕者仁之作也(寛裕であらば仁の作すなり)」に取材している[2]。同じ日には宮中賢所皇霊殿神殿において「御命名の祭典」が営まれ、続いて豊明殿にて祝宴も催され出席している皇族・大臣らが唱えた「万歳」が宮中祝宴において唱えられた初めての「万歳」と言われている[3][注釈 2]

生後70日の7月7日、御養育掛となった枢密顧問官川村純義海軍中将伯爵)邸に預けられた。1904年(明治37年)11月9日、川村伯・死去を受け弟・淳宮(後の秩父宮雍仁親王)と共に沼津御用邸に移った。1906年(明治39年)5月からは青山御所内に設けられた幼稚園に通い、1908年(明治41年)4月には学習院初等科に入学し、学習院院長・乃木希典陸軍大将)に教育された。

父・大正天皇 
母・貞明皇后 

皇太子時代[編集]

1919年(大正8年)4月、陸軍歩兵大尉の正衣を着用して撮影された18歳の裕仁親王

1912年(明治45年)7月30日、祖父・明治天皇が崩御し、父・嘉仁親王が践祚したことに伴い、皇太子となる。大正と改元された後の同年(大正元年)9月9日、皇族身位令の定めにより陸海軍少尉に任官し、近衛歩兵第1連隊附および第一艦隊附となった。翌1913年(大正2年)3月、高輪東宮御所へ移る。1914年(大正3年)3月に学習院初等科を卒業し、翌4月から東郷平八郎総裁(海軍大将)の東宮御学問所に入る。1915年(大正4年)10月、陸海軍中尉に昇任。1916年(大正5年)年10月には陸海軍大尉に昇任し、同年11月3日に宮中賢所立太子礼を行い、正式に皇太子となった。

1918年(大正7年)1月、久邇宮邦彦王の第一王女・良子女王皇太子妃に内定。1919年(大正8年)4月に満18歳となり、5月7日に成年式が執り行われるとともに、貴族院皇族議員となった。1920年(大正9年)10月に陸海軍少佐に昇任し、11月4日には天皇の名代として陸軍大演習を統監した。1921年(大正10年)2月28日、東宮御学問所修了式が行われる。大正天皇の病状悪化の中で、3月3日から9月3日まで、軍艦「香取」でイギリスをはじめ、フランスベルギーオランダイタリアヨーロッパ5か国を歴訪。1921年5月9日、イギリス国王ジョージ5世から名誉陸軍大将(Honorary General)に任命された[4]。同年11月25日、20歳で摂政に就任し[5]摂政宮(せっしょうみや)と称した。

台湾総督府に到着した摂政時の皇太子を出迎える騎兵隊(1923年4月)

1923年(大正12年)4月、戦艦「金剛」で台湾を視察する。9月1日には関東大震災が発生し、同年9月15日に震災による惨状を乗馬で視察し、その状況を見て結婚を延期した。10月1日に御学問開始。10月31日に陸海軍中佐に昇任した。12月27日虎ノ門附近で狙撃されるが命中せず命を取り留めた(虎ノ門事件)。1924年(大正13年)に、良子女王と結婚した。1925年(大正14年)4月、赤坂東宮仮御所内に生物学御学問所を設置。8月、戦艦「長門」で樺太を視察。10月31日に陸海軍大佐に昇任した。12月、第一女子・照宮成子内親王が誕生。

即位と第二次世界大戦[編集]

1928年(昭和3年)、即位の礼

1926年(大正15年)12月25日、父・大正天皇崩御を受け、葉山御用邸において践祚して第124代天皇となり、昭和改元[注釈 3]1927年(昭和2年)2月7日に大正天皇の大喪を執り行った。同年6月、赤坂離宮内に水田を作り、田植えを行う[注釈 4]。同年9月10日、第二皇女・久宮祐子内親王が誕生。同年11月9日に行われた名古屋地方特別大演習の際には、軍隊内差別について直訴された(北原二等卒直訴事件)。

1928年(昭和3年)3月8日、久宮祐子内親王が薨去。9月14日に赤坂離宮から宮城内へ移住した。11月10日、京都御所即位の大礼を挙行。1929年(昭和4年)4月、即位後初の靖国神社親拝。9月30日、第三皇女・孝宮和子内親王が誕生した。

1930年(昭和5年)6月26日、日英同盟失効後にも関わらず、イギリスの正規軍の陸軍元帥(Field Marshal)に任命された[6]

1931年(昭和6年)1月、天皇・皇后の御真影を全国の公私立学校に下賜する。3月7日、第四皇女・順宮厚子内親王が誕生する。1932年(昭和7年)1月8日、桜田門外を馬車で走行中に手榴弾を投げつけられる(桜田門事件)。1933年(昭和8年)12月23日、待望の第一皇子・継宮明仁親王(現:今上天皇)が誕生し祝賀される。1935年(昭和10年)11月28日には、第二皇子・義宮正仁親王(後の常陸宮)が誕生した。

昭和天皇御前の大本営会議の様子
(1943年(昭和18年)4月29日 朝日新聞掲載)

1937年(昭和12年)11月30日、宮中に大本営を設置。1938年(昭和13年)1月11日、御前会議で「支那事変処理根本方針」を決定する。1939年(昭和14年)3月2日、第五皇女・清宮貴子内親王(後の島津貴子)が誕生する。

1941年(昭和16年)、季刊イギリス陸軍将校名簿(Army List)10月号[7]の外国の君主のページに、名誉職ではない軍位を持つ、陸軍元帥(Field Marshal)の裕仁天皇陛下と記載された[8]

1941年(昭和16年)12月1日に御前会議で対米英開戦を決定し、12月8日に「米国及英国ニ対スル宣戦ノ布告」を出した。1942年(昭和17年)12月11日から13日にかけて、伊勢神宮へ必勝祈願の行幸。同年12月31日には御前会議を開いた。1943年(昭和18年)1月8日、宮城吹上御苑内の御文庫に移住した。

1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲を受け、3月18日に東京都内の被災地を視察した。5月26日の空襲では宮城に攻撃を受け、宮殿が炎上した。ポツダム宣言の受諾を決断し、8月10日の御前会議にていわゆる「終戦の聖断」を披瀝した。8月14日の御前会議でポツダム宣言の無条件受諾を決定し、終戦の詔書を出した。同日にはこれを自ら音読して録音し、8月15日ラジオ放送において臣民に終戦を伝えた(玉音放送)。9月27日に、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーとの会見のため、駐日アメリカ合衆国大使館を初めて訪問。11月13日に、伊勢神宮へ終戦の報告親拝を行った。また同年には、神武天皇の畝傍山陵、明治天皇の伏見桃山陵、大正天皇の多摩陵にも親拝して終戦を報告した。

「象徴天皇」として[編集]

1956年(昭和31年)、正装姿の昭和天皇・香淳皇后
米国大統領:ロナルド・レーガン夫妻と昭和天皇(右)。1983年(昭和58年)11月9日東京都にて

1946年(昭和21年)1月1日の年頭詔書(いわゆる人間宣言)により、天皇の神格性や「世界ヲ支配スベキ運命」などを否定し、新日本建設への希望を述べた。2月19日、戦災地復興視察のため横浜へ行幸(1949年(昭和29年)まで全国各地を巡幸した)。11月3日、日本国憲法を公布した。1947年(昭和22年)5月3日、日本国憲法が施行され、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第1条)と位置づけられた。6月23日、第1回国会(特別会)の開会式に出席し、勅語で初めて「わたくし」を使う。1950年(昭和25年)7月13日、第8回国会(臨時会)の開会式に出御し、従来の「勅語」から「お言葉」に改めた。1952年(昭和27年)4月28日に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効し、同年5月3日に皇居外苑で行われた主権回復記念式典で天皇退位説を否定する。また同年には、伊勢神宮と神武天皇の畝傍山陵、明治天皇の伏見桃山陵にそれぞれ親拝し、日本の国家主権回復を報告した。10月16日、初めて天皇・皇后が揃って靖国神社に親拝した。

1971年(昭和46年)、皇后と共にイギリスオランダなどヨーロッパ各国を歴訪。1975年(昭和50年)、皇后と共にアメリカ合衆国を訪問した。帰国後の10月31日には、日本記者クラブ主催で皇居「石橋の間」で史上初の正式な記者会見が行われた[9]

1976年(昭和51年)には、在位五十年記念事業として、立川飛行場跡地に国営昭和記念公園が建設された。記念硬貨が12月23日から発行され、発行枚数は7,000万枚に上った。1981年(昭和56年)、新年一般参賀にて初めて「お言葉」を述べた。1986年(昭和61年)には在位60年記念式典が挙行され、神代を除く歴代天皇で最長の在位期間を記録した。

晩年・87歳で崩御[編集]

1987年(昭和62年)4月29日、天皇誕生日の祝宴・昼食会中に嘔吐症状で中座する。その後同年8月以降になると何度も吐瀉の繰り返しや、体重が減少する等体調不良が顕著に。検査の結果、十二指腸から小腸の辺りに通過障害が見られ、「腸閉塞」と判明。食物を腸へ通過させるバイパス手術を受ける必要性がある為、9月22日に歴代天皇では初めての開腹手術を受けた。病名は「慢性膵臓炎」と発表された(後述)。同年12月には公務に復帰し、回復したかに見えた。

しかし1988年(昭和63年)に入ると、体重はさらに激減。同年8月15日全国戦没者追悼式が最後の公式行事出席となった。同年9月8日、那須御用邸から皇居に戻る最中、車内に映し出されたのが最後の公の姿となった。

同年9月18日、大相撲9月場所を観戦予定だったが、高熱が続くため急遽中止に。その翌9月19日の午後10時頃、突然大量吐血により救急車が出動、緊急輸血を行う。その後も吐血・下血を繰り返し、マスコミ陣はこぞって「昭和天皇重体」と大きく報道され、さらに日本各地では「自粛」の動きが広がった(後述)。

十二指腸乳頭周囲腫瘍腺癌[注釈 5]のため長く療養していたが1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分に崩御(宝算87)。神代を除く歴代の天皇で最も長寿。同日午前7時55分に宮内庁長官・藤森昭一と内閣官房長官小渕恵三がそれぞれ会見を行い崩御を公表。同年(平成元年)1月31日、今上天皇が、在位中の元号から採り昭和天皇追号した。2月24日新宿御苑において大喪の礼が行われ、武蔵野陵に埋葬された。愛用の品100点余りが、副葬品として共に納められたとされる[10]

年譜[編集]

1916年、立太子された皇太子裕仁親王(当時)の姿を見ようと宮城前広場に集まる日本国民
1921年、5月15日ロンドン近郊のクロウフォードで、英国首相ロイド・ジョージらと
1925年11月、良子妃と成子内親王と
1938年(昭和13年)1月、陸軍始観兵式において「白雪」号にまたがり帝国陸軍将兵の閲兵を行う昭和天皇
1946年(昭和21年)11月3日日本国憲法に署名

系譜[編集]

昭和天皇 父:
大正天皇
祖父:
明治天皇
曾祖父:
孝明天皇
曾祖母:
中山慶子
祖母:
柳原愛子
曾祖父:
柳原光愛
曾祖母:
長谷川歌野
母:
貞明皇后
祖父:
九条道孝
曾祖父:
九条尚忠
曾祖母:
唐橋姪子
祖母:
野間幾子
曾祖父:
野間頼興[15]
曾祖母:
不詳

系図[編集]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
122 明治天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
123 大正天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
124 昭和天皇
 
秩父宮雍仁親王
 
高松宮宣仁親王
 
三笠宮崇仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
125 今上天皇
 
常陸宮正仁親王
 
寛仁親王
 
桂宮宜仁親王
 
高円宮憲仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
皇太子徳仁親王
 
秋篠宮文仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
悠仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

皇子女[編集]

1941年(昭和16年)12月7日、太平洋戦争開戦前日の天皇一家

香淳皇后との間に7人の皇子女を儲ける。以下誕生順。

主な出来事[編集]

乃木希典殉死[編集]

1912年明治45年)7月30日の明治天皇の崩御後、陸軍大将・乃木希典が夫人と共に殉死し波紋を呼んだ。晩年の乃木は学習院院長を務め少年時代の迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)にも影響を与えた。

乃木の「雨の日も(馬車を使わずに)外套を着て徒歩で登校するように」という質実剛健の教えは迪宮に深い感銘を与え、天皇になった後も記者会見の中で度々紹介している[16][17][18]。迪宮はこの他にも乃木の教えを守り、実際に青山御所から四谷の初等科まで徒歩で通学し、また継ぎ接ぎした衣服を着用することもあった[19]。迪宮は乃木を「院長閣下」と呼び尊敬していた。ある人が「乃木大将」と呼んだので「それではいけない。院長閣下と呼ぶように」と注意したという。

1912年(大正元年)9月9日(他説あり)、乃木は皇太子となった裕仁親王に勉学上の注意と共に自ら写本した『中朝事実』を与えた[19]。乃木の「これからは皇太子として、くれぐれも御勉学に励まれるように」との訓戒に対し、そのただならぬ様子に皇太子は「院長閣下はどこに行かれるのですか?」と質問したという。9月13日、明治天皇の大喪の礼当日、乃木は殉死した。皇太子はその翌日に、養育掛長であった丸尾錦作から事件を知らされ、彼の辞世の歌にも接して涙を流した[20]

宮中某重大事件[編集]

「御婚約御変更無し」と報じる東京朝日新聞(大正10年2月11日)

1918年(大正7年)の春、久邇宮邦彦王を父に持ち、最後の薩摩藩主・島津忠義の七女・俔子を母に持つ、久邇宮家の長女・良子女王(香淳皇后)が皇太子妃に内定し、翌1919年(大正8年)6月に正式に婚約が成立した。

しかし11月に、元老山縣有朋が、良子女王の家系(島津家)に色盲遺伝があるとして婚約破棄を進言。山縣は西園寺公望や首相の原敬と連携して久邇宮家に婚約辞退を迫ったが、長州閥の領袖である山縣が薩摩閥の進出に危惧を抱いて起こした陰謀であるとして、民間の論客・右翼から非難されることとなった。当初は辞退やむなしの意向だった久邇宮家は態度を硬化させ、最終的には裕仁親王本人の意志が尊重され、1921年(大正10年)2月に宮内省から「婚約に変更なし」と発表された。

事件の責任を取って、宮内大臣中村雄次郎は辞任し、山縣は枢密院議長など全官職の辞職願を提出した。しかし同年5月に山縣の辞表は詔を以て却下された。この事件に関して山縣はその後一言も語らなかったという。翌年2月に山縣はひっそり世を去った。

婚礼の儀の延期と関東大震災[編集]

1924年(大正14年)、成婚直後の皇太子裕仁親王と良子妃

1923年(大正12年)の関東大震災では霞関離宮が修理中であったために箱根(震災で大きな被害を受けた)へ行く予定であったが、当時の内閣総理大臣加藤友三郎が急逝したことによる政治空白が発生したため、東京の宮城(皇居)に留まり命拾いをした。天皇は、1973年(昭和48年)9月の記者会見で「加藤が守ってくれた」と語っている[21]

地震における東京の惨状を視察した裕仁親王(当時摂政)は大変心を痛め、自らの婚礼の儀について「民心が落ち着いたころを見定め、年を改めて行うのがふさわしい」という意向を示して翌年1月に延期した。

後年、1981年(昭和56年)の記者会見で、昭和天皇は関東大震災について「その惨憺たる様子に対して、まことに感慨無量でありました」と述懐している。

田中義一首相を叱責[編集]

満州某重大事件の責任者処分に関して、内閣総理大臣・田中義一は責任者を厳正に処罰すると昭和天皇に約束したが、軍や閣内の反対もあって処罰しなかった時、天皇は「それでは前の話と違うではないか」と田中の食言を激しく叱責した。その結果、田中内閣は総辞職したとされる(田中はその後間もなく死去)。

田中内閣時には、若い天皇が政治の教育係ともいえる内大臣牧野伸顕の指導の下、選挙目当てでの内務省の人事異動への注意など積極的な政治関与を見せていた。そのため、軍人右翼国粋主義者の間では、この事件が牧野らの「陰謀」によるもので、意志の強くない天皇がこれに引きずられたとのイメージが広がった。天皇の政治への意気込みは空回りしたばかりか、権威の揺らぎすら生じさせることとなった。

この事件で、天皇はその後の政治的関与について慎重になったという。

なお、『昭和天皇独白録』には、「辞表を出してはどうか」と天皇が田中に内閣総辞職を迫ったという記述があるが、当時の一次史料(『牧野伸顕日記』など)を照らし合わせると、そこまで踏み込んだ発言はなかった可能性もある。

昭和天皇が積極的な政治関与を行った理由について、伊藤之雄は牧野の影響の下で天皇が理想化された明治天皇のイメージ(憲政下における明治天皇の実態とは異なる)を抱き親政を志向したため、原武史は地方視察や即位後続発した直訴へ接した体験の影響によると論じている。

「天皇機関説」事件[編集]

1935年(昭和10年)、美濃部達吉の憲法学説である天皇機関説が政治問題化した天皇機関説事件について、昭和天皇は侍従武官長本庄繁に「美濃部説の通りではないか。自分は天皇機関説でよい」と言った。昭和天皇が帝王学を受けた頃には憲法学の通説であり、昭和天皇自身、「美濃部は忠臣である」と述べていた。ただ、機関説事件や一連の「国体明徴」運動を巡って昭和天皇が具体的な行動をとった形跡はない。機関説に関しての述懐を、昭和天皇の自由主義的な性格の証左とする意見の一方、美濃部擁護で動かなかったことを君主の非政治性へのこだわりとする見解もある。

二・二六事件[編集]

1936年(昭和11年)に起きた陸軍皇道派青年将校らによる二・二六事件の際、侍従武官長・本庄繁陸軍大将が青年将校たちに同情的な進言を行ったところ、昭和天皇は怒りもあらわに「朕が股肱の老臣を殺りくす、此の如き兇暴の将校等の精神に於て何ら恕す(許す)べきものありや(あるというのか)」「老臣を悉く倒すは、朕の首を真綿で締むるに等しき行為」と述べ、「朕自ら近衛師団を率ゐこれが鎮圧に当らん」と発言したとされる[22]。このことは「君臨すれども統治せず」の立憲君主の立場を採っていた天皇が、政府機能の麻痺に直面して初めて自らの意思を述べたともいえる。この天皇の意向ははっきりと軍首脳に伝わり、決起部隊を反乱軍として事態を解決しようとする動きが強まり、紆余曲折を経て解決へと向かった。

この時の発言について、戦争終結のいわゆる“聖断”と合わせて、「立憲君主としての立場(一線)を超えた行為だった」「あの時はまだ若かったから」と後に語ったといわれている。この事件との影響は不明ながら、1944年(昭和19年)に皇太子明仁親王が満10歳になり、皇族身位令の規定に基づき陸海軍少尉に任官することになった折には、任官を取り止めさせている。また、皇太子の教育係として陸軍の軍人を就けることを特に拒否している。

なお、1975年(昭和50年)にエリザベス女王が来日した際、事件の影の首謀者といわれることもある真崎甚三郎の息子で外務省や宮内庁で勤務した真崎秀樹が昭和天皇の通訳を務めた。

大東亜戦争(第二次世界大戦)[編集]

開戦[編集]

1941年(昭和16年)9月6日御前会議で、対英米蘭戦は避けられないものとして決定された。御前会議では発言しないことが通例となっていた昭和天皇はこの席で敢えて発言をし、明治天皇御製の

四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらむ
(四方の海にある国々は皆兄弟姉妹と思う世に なぜ波風が騒ぎ立てるのであろう)

という短歌を詠み上げた。

『昭和天皇独白録』などから、昭和天皇自身は開戦には消極的であったといわれている。ただし、『昭和天皇独白録』は占領軍に対する弁明としての色彩が強いとする吉田裕らの指摘もある。戦争が始まった後の1941年12月25日には日本軍の勝利を確信して、「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」と語ったと小倉庫次の日記に記されている。

日本共産党中央委員長も務めた田中清玄は、後に転向して天皇制護持を強く主張する尊皇家になった。1945年(昭和20年)12月21日、宮内省から特別に招かれた昭和天皇との直接会見時の最後に、「他になにか申したいことがあるか?」と聞かれ、田中は「昭和16年12月8日の開戦には、陛下は反対でいらっしゃった。どうしてあれをお止めになれなかったのですか?」と問い質した。それに対して昭和天皇は「私は立憲君主であって、専制君主ではない。臣下が決議したことを拒むことはできない。憲法の規定もそうだ。」と回答している。

戦争指導[編集]

1943年(昭和18年)6月24日戦艦武蔵行幸した昭和天皇(中央)

開戦後から戦争中期にかけては、文字通り世界中で日本軍が戦果を上げていた状況で、昭和天皇は各地の戦況を淡々と質問していた。この点で昭和天皇の記憶力は凄まじいものがあったと思われ、実際にいくつか指示等もしている。有名なものとして日本軍が大敗したミッドウェー海戦では敵の待ち伏せ攻撃を予測し、過去の例を出し敵の待ち伏せ攻撃に注意するよう指示したが、前線に指示は届かず結果待ち伏せ攻撃を受け大敗を喫した例がある。また、昭和天皇はときに、軍部の戦略に容喙したこともあった。太平洋戦争時の大本営において、当時ポルトガル領であったティモール島東部占領の計画が持ち上がった(ティモール問題)。これは、同島を占領して、オーストラリアを爆撃範囲に収め、敵の戦意を奪おうとするものであった。しかし、御前会議で昭和天皇はこの計画に反対した。その時の理由が、「アゾレス諸島のことがある」というものであった。これは、もしティモール島攻撃によって中立国のポルトガルが連合国側として参戦した場合、アメリカの輸送船がアゾレス諸島とイベリア半島との間にある海峡を通過することが容易となり、イギリスの持久戦が長引くため、かえって戦況が不利になると判断したのである。この意見は、御前会議でそのまま通った。しかし1943年(昭和18年)、ポルトガルの承認を受け、イギリスはアゾレス諸島の基地を占拠し、その後は連合国軍によって使用されている。

和平に向けて[編集]

日本が連合国に対して劣勢となっていた1945年(昭和20年)1月6日に、連合国軍がルソン島上陸の準備をしているとの報を受けて、昭和天皇は木戸幸一に重臣の意見を聞くことを求めた。このとき、木戸は陸海両総長と閣僚の召集を勧めている[注釈 6]。 準備は木戸が行い、軍部を刺激しないように秘密裏に行われた。表向きは重臣が天機を奉伺するという名目であった[注釈 7]

その中で特筆すべきものとしては、2月14日に行われた近衛文麿上奏がある。近衛は敗戦必至であるとして、和平の妨害、敗戦に伴う共産主義革命を防ぐために、軍内の革新派の一味を粛清すべきだと提案している。昭和天皇は、近衛の言う通りの人事ができないことを指摘しており、近衛の策は実行されなかった[24][25]

8月9日に、連合国によるポツダム宣言受諾決議案について長時間議論したが結論が出なかったため、首相・鈴木貫太郎の判断により天皇の判断(御聖断)を仰ぐことになった[注釈 8]。昭和天皇は受諾の意思を表明し、8月15日玉音放送。終戦となった。後に昭和天皇は侍従長の藤田尚徳に対して「誰の責任にも触れず、権限も侵さないで、自由に私の意見を述べ得る機会を初めて与えられたのだ。だから、私は予て考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである」「私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ、このことが出来たのだと思っている」と述べている[26][27][28]

象徴天皇への転換[編集]

マッカーサーとの会見写真[編集]

マッカーサーとの会見(1945年9月27日)
広島を訪れ歓迎を受ける昭和天皇(1947年

イギリスやアメリカなどの連合国による占領下の1945年(昭和20年)9月27日に、天皇はGHQ総司令官ダグラス・マッカーサーが居住していたアメリカ大使館を訪れ、初めて会見した。マッカーサーは「天皇のタバコの火を付けたとき、天皇の手が震えているのに気がついた。できるだけ天皇の気分を楽にすることにつとめたが、天皇の感じている屈辱の苦しみがいかに深いものであるかが、私には、よくわかっていた」と回想している(『マッカーサー回想記』より)。

また、会見の際にマッカーサーと並んで撮影された全身写真が、2日後の29日に新聞掲載された。天皇が正装のモーニングを着用し直立不動でいるのに対し、マッカーサーが略装軍服で腰に手を当てたリラックスした態度であることに、国民は衝撃を受けた(しかしマッカーサーが略装軍服だったのは特に意識して行ったことではなく、普段からマッカーサーは公式な場において正装の軍服を着用することを行わなかったために、ハリー・S・トルーマン大統領をはじめとしたアメリカ政府内でも批判されていた)。

人間宣言[編集]

1946年(昭和21年)1月1日に、新日本建設に関する詔書人間宣言)が官報により発布された。戦後民主主義は日本に元からある五箇条の誓文に基づくものであることを明確にするため、詔書の冒頭において五箇条の御誓文を掲げている[29][30]。 1977年(昭和52年)8月23日の昭和天皇の会見によると、日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、この詔書の主な目的である[29][31][32]

この詔書は「人間宣言」と呼ばれている。しかし、人間宣言はわずか数行で、詔書の6分の1しかない。その数行も事実確認をするのみで、特に何かを放棄しているわけではない[33]

天皇イメージの転換[編集]

天皇御服を着用し伊勢神宮へ終戦報告に向かう昭和天皇(1945年11月12日)

戦前の天皇は一般国民との接触はほとんど無く、公開される写真、映像も大礼服軍服姿がほとんどで、現人神大元帥という立場を非常に強調していた。

ポツダム宣言には天皇や皇室に関する記述が無く、非常に微妙な立場に追い込まれた。そのため、政府や宮内省などは、天皇の大元帥としての面を打ち消し、軍国主義のイメージから脱却するとともに、巡幸という形で天皇と国民が触れ合う機会を作り、天皇擁護の世論を盛り上げようと苦慮した。具体的に、第1回国会の開会式、伊勢神宮への終戦報告の親拝時には、海軍の軍衣から階級章を除いたような「天皇御服」と呼ばれる服装を着用した。

さらに、連合国による占領下では、礼服としてモーニング、平服としては背広を着用してソフト路線を強く打ち出した。また、いわゆる「人間宣言」でGHQの天皇制擁護派に近づくとともに、一人称としてを用いるのが伝統であったのをを用いたり、巡幸時には一般の国民と積極的に言葉を交わすなど、日本の歴史上最も天皇と庶民が触れ合う期間を創出した。

マッカーサーへの占領長期化の嘆願とその理由[編集]

1946年(昭和21年)10月16日(日本時間)、第3回天皇とマッカーサーの会談の通訳・寺崎英成による議事録の全文を紹介する。天皇がマッカーサーに話た日本語は、寺崎英成が通訳して英文として記録したもの[34][35]

He said that the Emperor wanted him to explain the basis for the latter's remark of a couple of weeks ago that he hoped the Occupation would not be too short. The Emperor felt that there were still many remnants of feudalism in the Japanese mind and that it would take a long time to eradicate them. He said the Japanese people as a whole were lacking in education which was necessary for their democratization and also that they were lacking in real religious feeling and were accordingly easy to sway from one extreme to the other. He said that one of the feudalistic traits was their willingness to be led and that they were not trained like Americans to think for themselves. He said the Tokugawa regime had been built on the theory that people should follow their leaders and should not be given any reason therefor except loyalty. Thus the average Japanese faced a traditional handicap in trying to think for himself.

With his instinct to follow rather blindly, the Japanese were now eagerly endeavoring to adopt American ideas but, as witness the labor situation, they were selfishly concentrating their attention on their rights and not thinking about their duties and obligations. Part of the reason for this stems from the long-standing habit of clannishness in their thinking and attitudes. The days when the Japanese people were divided into clans are not really over. The average Japanese considers his relatives as friends whose interests he would pursue, and other people as enemies whose interests do not merit consideration.

He said the Emperor had talked a great deal lately about the lack of religious feeling among the Japanese. The Emperor did not consider Shinto a religion. It was merely a ceremony and he thought that it had been greatly over-rated in the United States. It still had some dangerous aspects, however, because most Shintoists were ultra-conservative and they and ex-soldiers and others who had identified Shintoism with ultra-nationalism had a tendency to cling together. This was dangerous now the Government was without any means of supervusing [sic] them because of its strict observance under orders of the freedom of religion. The Emperor thought that the Shinto elements and their fellow travelers would bear watching because they were anti-American.

The Emperor felt that this was no time to talk about whatever virtues the Japanese people possessed but rather to consider their faults. Some of their faults were indicated in the foregoing general outline of the Emperor's thoughts which had brought him to the conclusion that the Occupation should last for a long time.

He said that the Emperor was very greatly impressed with General MacArthur and what he was doing. I said that General MacArthur was one of our greatest Americans who in his devotion to American and Allied interests at the same time, as the Emperor knew, had the best interests of the Japanese people at heart. I said that we Americans believed that Allied objectives for Japan were in the best interests of the Japanese as well as the world at large and we looked forward to the development of a democratic and economically sound Japan which would respect the rights of other nations and become a cooperative member of the Commonwealth of Nations.

In response to an inquiry in regard to reparations, I said that General MacArthur is extremely anxious to have this question settled as soon as possible so that the Japanese industrialists could get down to work and produce goods needed for the purpose of paying for imports of food and for consumption in this country. I said that the General and his staff were doing everything they could to hasten the achievement of economic stability in Japan and I added some remarks in regard to the industry and thrift of the Japanese people and the need that they exert their best efforts for improvement of the economic situation.

He said the Emperor appreciated very much the American attitude taken in the Allied Council, and felt that it had a stabilizing effect. But he was now considerably worried over the labor situation in this country and hoped that the coal strike in the United States would be settled soon because the Japanese laborers, in their imitative way and in their selfish seeking of their rights without regard to their obligations, were being adversely affected by the American coal strike.

He said the Emperor had remarked to him several times that the name given his reign--Showa or Enlightened Peace--now seemed to be a cynical one but that he wished to retain that designation and hoped that he would live long enough to insure that it would indeed be a reign of "Splendid Peace".

He said that the Emperor was distressed over the loss by Admiral Suzuki, whom he had named to head the Cabinet to prepare for the surrender, of not only his Naval pension, which was understandable, but also his pension as a civil official. He had been Lord Chamberlain to the Emperor for a number of years, had done his job well in laying preparations for the surrender and, while his rank as Admiral and wartime status as Prime Minister naturally subjected him to purge, he was not prevented from receiving his pension due him from his position in the Imperial Household. The Emperor was perturbed not only for the sake of Admiral Suzuki personally but also because such deprivations, which were not understood by the Japanese, created anti-American feelings which were not in the interests of the Occupation or of Japan itself.

和訳

2週間前の手紙で占領はあまり短くならないよう期待していると述べたことの根拠を説明したい。日本人の心にはまだ封建制度の名残が多々あり、それを根絶するには長い時間がかかるだろうと感じていた。日本人は全体として、民主主義のために必要な教育に欠け、また真の宗教心にも欠け、そのため極端から極端へと走りやすい。日本人の封建的特徴の一つは、人につき従うことを喜ぶ心。また日本人はアメリカ人のように自分の力で考えることを訓練されていない。徳川幕府は、民は彼らの領主に従うべきであり、忠誠心以外のいかなる道理も与えられるべきではないという論理の上に築かれていた。だから平均的な日本人は、自分で考えようとすると、因襲的な障害に直面してしまう。

やみくもにつき従う本能でもって日本人は今、アメリカの考え方を受け容れようと熱心に努力をしてはいるものの、労働者の状況が明かす日本人は身勝手で権利ばかりに意識を集中し、務めや義務についてを考えてはいない。この動機の部分は、日本人の思考と態度における長年の氏族的習慣に由来する。日本人が藩に分かれていた時代は、実際には終っていない。平均的日本人は、自分の親戚を利益を希求する仲間とみなし、他人は利益を考慮してあげるに値しない敵と考えている。

日本人の間で宗教心が欠如していることについて、最近たくさん話した。天皇自身、神道を宗教と考えてはいない。神道は単なる儀式なのに、アメリカでは過大評価していると思っている。しかし、ほとんどの神道信者は大変保守的であり、彼らと神道家そして超国家主義を神道と同一視していた復員兵は、団結する傾向があり、まだいくらか危険な側面がある。信教の自由という憲法の下で現在、政府が彼らを取り締まる手段を持っていない状況が危険だ。神道分子とその同調者は反米であるため、注意が必要と考えている。

日本人のいかなる美徳についても話している場合ではなく、日本人の欠点を熟慮すべきと、天皇は感じていた。日本人の短所のいくつかは、「占領は長期化すべきという結論」に天皇を導いた、前述の考え方全般に示されている。

天皇は、マッカーサー元帥とその行いに大変感銘を受けている。マッカーサー元帥は、自分がアメリカと連合軍の両方の利益のために尽力する最もりっぱなアメリカ人の1人であり、天皇も知っているとおり、日本人の利益のために心から最善を尽していると話した。自分たちアメリカ人は、日本について連合軍の目的が、世界全体についてと同様、日本の最善の利益にあると考えており、日本が他国の権利を尊重しイギリス連邦の協力的な一員となり、民主的でかつ経済的に健全な国へと発展することを楽しみにしていると、マッカーサー元帥は話した。

賠償金に関する問合せへの回答について、マッカーサー元帥は、この問題をできるだけ早く解決するためには、日本の実業家たちが仕事に取り掛かり、そして食料の輸入や国内消費に必要な商品の生産ができるようにと、非常に焦っている。マッカーサー元帥とその部下は、日本における経済の安定を早めるためにできる、ありとあらゆることをこなしていた。そしてマッカーサー元帥は、産業とその振興の妨げになる日本人の倹約体質、また経済状況改善のための最善の努力を喚起する必要について、いくらかの意見をつけ加えた。

天皇は、対日理事会におけるアメリカの態度に非常に感謝し、そしてそれは安定効果があると感じている。しかし天皇は今、この国の労働状況に甚だ憂慮している。そして、アメリカの炭鉱ストライキが速やかに解決することを望んでいる。なぜなら、日本人労働者たちの摸倣する志向性に障り、義務などお構いなしに、アメリカの労働ストライキに影響されるからだ。

天皇は、彼の治世に付せられた名「昭和、平和を啓発する」が今は皮肉に見えているが、その元号を維持することを望んでいると何度も言った。そして、誠に「壮大な平和」の治世になることを保証するために、十分に長生きすることを希望している。

天皇は、鈴木貫太郎海軍大将の損失に、心を痛めている。降伏の準備をする内閣を率いるよう任命したのに、海軍の恩給だけならまだしも、文官としての恩給まで失ったのだ。彼は、長年天皇の大侍従長を務め、降伏の準備を整える任務を成し遂げたが、陸軍大将の軍位と首相としての戦時中の地位は当然ながら追われることとなった。彼の皇室での勤めに由来する恩給の受け取りは止められていない。天皇は、そうした剥奪が鈴木陸軍大将個人にとどまらず、日本人国民にも理解されずに、占領や日本自身のためにもならない反米感情を生み出しているため、不安を募らせている。

スポーツ観戦[編集]

相撲[編集]

1913年(大正2年)頃、傅育官と相撲に興じる裕仁親王(12歳)

皇太子時代から大変な好角家であり、皇太子時代には当時の角界に下賜金を与えて幕内優勝力士のために摂政宮賜盃を作らせている。即位に伴い、摂政宮賜盃は天皇賜盃と改名された。観戦することも多く、戦前戦後合わせて51回も国技館天覧相撲に赴いている。

特に戦後は1955年(昭和30年)以降、病臥する1987年(昭和62年)までに40回、ほとんど毎年赴いており、贔屓の力士も蔵間富士桜霧島など複数が伝わっている。特に富士桜の取組には身を乗り出して観戦したといわれ、皇居でテレビ観戦する際にも大いに楽しんだという。上述の贔屓の力士と同タイプの力士であり毎回熱戦となる麒麟児との取組は、しばしば天覧相撲の日に組まれた。天皇は後に、「少年時代に相撲をやって手を覚えたため、観戦時も手を知っているから非常に面白い」と語った[36]

武道[編集]

1929年(昭和4年)、1934年(昭和9年)、1940年(昭和15年)に皇居内(済寧館)で開催された剣道柔道弓道の天覧試合は、武道史上最大の催事となった。この試合を「昭和天覧試合」という。

野球[編集]

1959年(昭和34年)には天覧試合として、プロ野球巨人阪神戦、いわゆる「伝統の一戦」を観戦している。天覧試合に際しては、当時の大映社長の永田雅一がこれを大変な栄誉としてとらえる言を残しており、相撲野球の振興に与えた影響は計り知れないといえる。この後昭和天皇のプロ野球観戦は行われなかったが、1966年(昭和41年)11月8日日米野球ドジャース戦を観戦している。

靖国親拝[編集]

昭和天皇は、終戦直後から1975年(昭和50年)まで、以下のように靖國神社親拝していたが、1975年(昭和50年)を最後に行わなくなった[37]。ただし例大祭(春と秋の年に2回)に際しては、勅使の発遣を行っている。

昭和天皇 靖国神社親拝(1934年
  1. 1945年昭和20年)8月20日(昭和天皇行幸)
  2. 1945年(昭和20年)11月・臨時大招魂祭(昭和天皇行幸)
  3. 1952年(昭和27年)4月10日(昭和天皇、香淳皇后行幸)
  4. 1954年(昭和29年)10月19日・創立八十五周年(昭和天皇、香淳皇后行幸)
  5. 1957年(昭和32年)4月23日(昭和天皇、香淳皇后行幸)
  6. 1959年(昭和34年)4月8日・創立九十周年(昭和天皇、香淳皇后行幸)
  7. 1964年(昭和39年)8月15日・全国戦没者追悼式(昭和天皇、香淳皇后行幸)
  8. 1965年(昭和40年)10月19日・臨時大祭(昭和天皇行幸)
  9. 1969年(昭和44年)6月10日・創立百年記念大祭(昭和天皇、香淳皇后行幸)
  10. 1975年(昭和50年)11月21日・大東亜戦争終結三十周年(昭和天皇、香淳皇后行幸)

昭和天皇が親拝を行わなくなった理由については、左翼過激派の活動の激化、宮中祭祀憲法違反である、とする一部野党議員の攻撃など様々に推測されてきたが、近年『富田メモ』(日本経済新聞2006年)・『卜部亮吾侍従日記』(朝日新聞、2007年4月26日)などの史料の記述から、1978年(昭和53年)に極東国際軍事裁判でのA級戦犯14名が合祀されたことに対して不満であったことを原因とする見方が、歴史学界では有力となっている。ただし、合祀後も勅使の発遣は継続されている。なお天皇の親拝が途絶えた後も、高松宮および三笠宮一族は参拝を継続している[38]

「崩御」前後[編集]

内閣[編集]

来るべく天皇崩御に備え、内閣は新元号(平成)の名称を検討しており、マスコミに「(内定していた)平成」の名称をスクープされぬよう徹底していた。

記帳[編集]

1988年(昭和63年)以降、各地に病気平癒を願う記帳所が設けられたが、どこの記帳所でも多数の国民が記帳を行った。病臥の報道から一週間で記帳を行った国民は235万人にも上り、最終的な記帳者の総数は900万人に達した。

各地の記帳所、記帳所の設置された場所は以下の通り。

  • 皇居前記帳所
  • 千葉県民記帳所
  • 葉山御用邸通用門記帳所
  • 名古屋熱田神宮境内記帳所
  • 京都御所前記帳所
  • 福岡市庁舎内記帳所
  • 東京都大島町 天皇陛下病気お見舞い記帳所

市民の動き[編集]

「自粛」ムード
1988年(昭和63年)9月19日の吐血直後から昭和天皇の闘病中にかけ、歌舞音曲を伴う派手な行事・イベントが自粛(中止または規模縮小)された。自粛の動きは大規模なイベントだけでなく、個人の生活(結婚式などの祝宴)にも波及した[39]。具体的な行動としては、以下のようなものが行われ、「自粛」は、同年の世相語となった[40]。このほか、目立つような物価の上昇(インフレーション)は見られなかった。
服喪
崩御後、政府の閣議決定により崩御当日を含め自治体には6日間・民間には2日間弔意を示すよう協力が要望された[48]。その結果、各地での弔旗掲揚などの服喪以外に、以下のようなスポーツ・歌舞音曲を伴う行事などの自粛が行われた。
その後も自粛の動き自体は続いた。テレビ番組では歌舞音曲を控えることからベストサウンドが再放送等で差し替えられるなどの影響が出た。
この後、2月24日大喪の礼では、再び企業・商店・レジャー施設が臨時休業した。民間での自粛・服喪の動きはこれを以って終息に向かった。
殉死
昭和天皇の崩御後は、確認されているだけで数名の殉死者(後追い自殺者)が出た。崩御と同日に和歌山県で87歳男性が[51]、茨城県でも元海軍少尉の76歳男性が[52]それぞれ自殺した。1月12日には福岡県で38歳男性が割腹自殺を遂げ[53]、3月3日にも東京都で元陸軍中尉の66歳男性が自殺している[54]

マスコミ報道[編集]

昭和天皇が高齢となった1980年代頃(特に開腹手術の行われた1987年(昭和62年)以降)から、各マスコミは来るべき天皇崩御に備え、原稿や紙面構成、テレビ放送の計画など密かに報道体制を準備していた。その中で、来るべき崩御当日は「Xデー」と呼ばれるようになる。

1988年(昭和63年)9月19日の吐血直後は、全放送局が報道特別番組を放送。不測の事態に備えてNHKが終夜放送を行ったほか、病状に変化があった際は直ちに報道特番が流され、人気番組でも放送が中止・中断されることがあった。また、一進一退を続ける病状や血圧・脈拍などが定時にテロップ表示された。9月時点で関係者の証言からであることが判明していたが、宮内庁・侍医団は天皇に告知していなかった[注釈 12]。そのため天皇がメディアに接することを想定し、具体的な病名は崩御までほとんど報道されなかった[注釈 13]

1月7日・8日およびそれ以後のマスコミの動き[編集]

NHKでは、1989年(昭和64年)1月7日の午前5時24分から「容体深刻報道」を総合テレビ・ラジオ第1・FMの3波で放送。午前6時36分18秒から午前10時までの「危篤報道から崩御報道」[注釈 14]と午後2時34分30秒から午後2時59分までの「新元号発表」[注釈 15]はNHKのテレビ・ラジオ全波(総合テレビ・教育テレビ・ラジオ第1・ラジオ第2・FM・衛星第1・衛星第2)で報道特別番組が放送された。1989年(平成元年)1月8日午前0時5分40秒(平成改元後の最初のニュース)までラジオ第1とFMで同一内容(ラジオの報道特別番組)が放送された。ラジオ第2では1月7日に限り一部番組が音楽のみの放送に差し替えられた。教育テレビでは1月7日に限り一部番組が芸術番組や環境番組に差し替えられ、『N響アワー』は曲目変更をした上で放送された[55][注釈 16]

7日の新聞朝刊には通常のニュースや通常のテレビ番組編成が掲載されていたが、号外および夕刊には各新聞ほとんど最大級の活字で「天皇陛下崩御」[注釈 17]と打たれ、テレビ番組欄も通常放送を行ったNHK教育の欄以外はほとんど白紙に近いものが掲載された。報道特別番組では「激動の昭和」という言葉が繰り返し用いられ、以後定着した。1月8日に日付が切り替わる直前には「昭和が終わる」ことに思いを馳せた人々が町の時計塔の写真を撮る、二重橋などの名所に佇み日付変更の瞬間を待つなどの姿が報道された。

1989年(昭和64年)1月7日の危篤報道(午前6時35分発表)[注釈 18]以降翌1月8日終日までは、NHK(総合)、民放各局が特別報道体制に入り、宮内庁発表報道を受けてのニュース、あらかじめ制作されていた昭和史を回顧する特集、昭和天皇の生い立ち、エピソードにまつわる番組などが放送された。また、この2日間はCMが放送されなかった

NHK教育テレビ以外の全テレビ局が特別報道を行ったため、多くの人々がレンタルビデオ店などに殺到する事態も生じた。また、この2日間は、ほぼ昭和天皇のエピソードや昭和という時代を振り返るエピソードを中心の番組編成が行われていたが、テレビ朝日は8日には、ゴールデンアワー時の放送について当初の内容を変更し、田原総一朗の司会による「天皇制はどうあるべきか」という番組に変更した。2日目を過ぎた後もフジテレビが『森田一義アワー 笑っていいとも!』を同番組の企画「テレフォンショッキング」の総集編『友達の輪スペシャル』に差し替えて放送するなど、自粛ムードに基づく放送を行っていたがその後収束していった。

外遊[編集]

皇太子時代[編集]

1921年(大正10年)、イギリスのオックスフォード大学でボートレースを見物する皇太子
同年5月19日、スコットランド エディンバラを訪問

皇太子時代の1921年(大正10年)3月3日から9月3日までの間、イギリスフランスベルギーイタリアバチカンなどを公式訪問した。これは史上初の皇太子の訪欧[注釈 19]であり、国内には反対意見も根強かったが、山縣有朋西園寺公望などの元老らの尽力により実現した。

裕仁親王の出発は新聞で大々的に報じられた。お召し艦には戦艦「香取」が用いられ、横浜を出発し、那覇香港シンガポールコロンボスエズカイロジブラルタルと航海し、二か月後の5月9日にポーツマスに着き、同日イギリスのロンドンに到着する。イギリスでは日英同盟のパートナーとして大歓迎を受け、国王ジョージ5世や首相デビッド・ロイド・ジョージらと会見した。その夜に、バッキンガム宮殿で晩餐会が開かれジョージ5世とコノート公らと会った。この夜をジョージ5世は、慣れぬ外国で緊張する当時の裕仁親王に父のように接し緊張を解いたと語っている。翌10日にはウィンザー宮殿にて王太子エドワードと会い、その後も連日に晩餐会が開かれた。ロンドンでは、大英博物館ロンドン塔イングランド銀行、ロイド海上保険、オックスフォード大学、陸軍大学、海軍大学などを見学し、ニューオックスフォード劇場とデリー劇場で観劇なども楽しんだ[56]ケンブリッジ大学ではタンナー教授の「英国王室とその国民との関係」の講義を聴き、また名誉法学博士の学位を授与した[57]。19日から20日にかけては、エディンバラを訪問し、エディンバラ大学でもまた名誉法学博士号を授与した。また、第8代アソール公ジョン・ステュアート=マレーの居城に3日間滞在したが、アソール公夫妻が舞踏会でそれぞれ農家の人々と手を組んで踊っている様子などを見て、「アソール公のような簡素な生活をすれば、ボルシェビキなどの勃興は起こるものではない。」と感嘆したという[57]

イタリアでは国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世らと会見したほか、各国で公式晩餐会に出席したり、第一次世界大戦当時の激戦地などを訪れた。戦後の1970年(昭和45年)9月16日、那須御用邸にて昭和天皇は「この外遊が非常に印象的であった」と述べている。

即位後[編集]

米国大統領リチャード・ニクソン夫妻と昭和天皇、香淳皇后1971年(昭和46年)9月27日、アメリカ合衆国アラスカ州アンカレッジにて
1975年(昭和50年)10月2日、訪米した天皇・皇后と米国大統領フォード夫妻

1971年(昭和46年)には9月27日から10月14日にかけて17日間、再度イギリスやオランダスイスなどヨーロッパ諸国7カ国を訪問した。なおこの際はお召し艦を使用した前回と違い日本航空ダグラスDC-8の特別機を使用した。訪問先には数えられていないが、このとき、経由地としてアラスカアンカレッジに立ち寄っており、エルメンドルフ空軍基地内のアラスカ地区軍司令官邸でワシントンD.C.から訪れたアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンと会談、実質的にアメリカも訪問している。なお、この昭和天皇とニクソンとの会談は当初の予定に無く、欧州歴訪のための給油にアメリカに立ち寄るだけの予定であったのだが、アメリカ側の要望で急遽、会談が決定した。日本側は要望を受け入れたものの、外務大臣福田赳夫は会談を推進する駐米大使・牛場信彦に「わが方としては迷惑千万である。先方の認識を是正されたい」とする公電を送っている。これは当時、天皇との会談を、ニクソンの訪中で悪化した日米関係を修復するのに利用しようとしているのではないかと福田が懸念し、象徴天皇制の前提が揺らぐ可能性を憂慮したためである[58][59]

当初の訪問地であり、王室同士の交流も深いデンマークベルギー、またフランスでは国を挙げて温かく歓迎され、フランスでは、当時イギリスを追われ事実上同国に亡命していた旧知のウィンザー公と隠棲先で再会、しばし歓談している。しかし、第二次世界大戦当時に植民地支配していたビルマシンガポールインドネシアなどにおける戦いにおいて日本軍に敗退し、捕虜となった退役軍人が多いイギリスとオランダでは抗議運動を受けることもあった。特に日本軍に敗退したことをきっかけにアジアにおける植民地を完全に失い国力が大きく低下したオランダにおいては、このことを恨む退役軍人を中心とした右翼勢力から生卵や魔法瓶を投げつけられ、同行した香淳皇后が憔悴したほど抗議はひどいものであった。

1975年(昭和50年)には、当時の大統領ジェラルド・R・フォードの招待によって9月30日から10月14日まで14日間にわたって、アメリカ合衆国を公式訪問した。天皇の即位後の訪米は史上初の出来事である[注釈 20]。このときはアメリカ空軍に加え海兵隊沿岸警備隊の5軍をもって観閲儀仗を行っている。訪米に前後し、日本国内では反米的な左翼組織東アジア反日武装戦線などによるテロが相次いだ。

天皇はウィリアムズバーグに到着して後、2週間にわたってアメリカに滞在し、訪米前の予想を覆してワシントンD.C.やロサンゼルスなど、訪問先各地で大歓迎を受けた。10月2日のフォードとの公式会見、10月3日のアーリントン国立墓地に眠る無名戦士の墓への献花、10月4日のニューヨークでのロックフェラー邸訪問とアメリカのマスコミは連日大々的に報道し、新聞紙面のトップは天皇の写真で埋まった(在米日本大使館の職員たちは、その写真をスクラップして壁に張り出したという。)。ニューヨーク訪問時には、真珠湾攻撃の生き残りで構成されるパールハーバー生存者協会が天皇歓迎決議を行っている。訪米中は学者らしく、植物園などでのエピソードが多かった。

ホワイトハウス晩餐会でのスピーチでは、戦後アメリカが日本の再建に協力したことへの感謝の辞などが読み上げられた。ロサンゼルス滞在時にはディズニーランドを訪問し、ミッキーマウスの隣で微笑む写真も新聞の紙面を飾った。同地ではミッキーマウスの腕時計を購入したことが話題になった。帰国の当日には二種類の記念切手が発行されており、この訪米が一大事業であったことを物語っている。昭和天皇の外遊は、この訪米が最後のものであった。

今上天皇と比較しても、外国訪問の回数はごく僅かである。

行幸[編集]

皇太子時代、台湾台南第一中学校行啓(1923年(大正12年))
1947年(昭和22年)、石川県で開催の国民体育大会の折、山中温泉栢野大杉を見上げる昭和天皇。あまりの大きさに暫く言葉もなく見上げたという

戦前、皇太子時代から盛んに国内各地に行啓、行幸した。特に、日本領としての歴史が浅い北海道沖縄両地への行啓は大掛かりに実施され、記録に残っている。沖縄行幸では人力車に乗って住民の前に姿を見せた。1923年(大正12年)には台湾台湾行啓)に、1925年(大正14年)には南樺太にも行啓している。

戦後は1946年(昭和21年)2月から約9年かけて日本全国を巡幸し、各地で国民の熱烈な歓迎を受けた。このときの巡幸では、三井三池炭鉱の地下1,000mもの地底深くや、満州からの引揚者が入植した浅間山麓開拓地などにも赴いている。開拓地までの道路は当時整備されておらず、約2kmの道のりを徒歩で村まで赴いた。1947年(昭和22年)には原爆投下後初めて広島に行幸し、「家が建ったね」と復興に安堵する言葉を口にした。その他、行幸先での逸話、御製も非常に多い(天覧の大杉のエピソード参照)。なお、当時の宮内次官・加藤進は、天皇が東京大空襲直後に東京・下町を視察した際、被害の甚大さに大きな衝撃を受けたことが、後の全国巡幸の主要な動機の一つになったのではないか、と推測している[60]

全国46都道府県を巡幸するも、沖縄巡幸だけは沖縄が第二次世界大戦終結後長らくアメリカ軍の占領下にあり、返還後も1975年(昭和50年)の皇太子訪沖の際にひめゆりの塔事件が発生したこともあり、ついに果たすことができず、死の床にあっても「もうだめか」と沖縄巡幸を行えないことを悔やんでいた。

また、1964年(昭和39年)の東京オリンピック1970年(昭和45年)の大阪万国博覧会1972年(昭和47年)の札幌オリンピックバブル経済前夜の1985年(昭和60年)の国際科学技術博覧会(つくば博)の開会式にも出席している。特に敗戦から立ち直りかけた時期のイベントである東京オリンピックの成功には、大きな影響を与えたと見られている。

病臥した1987年(昭和62年)秋にも、沖縄海邦国体への出席が予定されていた。病臥し自ら訪沖することが不可能と判明した後は、皇太子明仁親王を名代として派遣し、お言葉を伝えた。これに関して、「思はざる病となりぬ沖縄をたづね果たさむつとめありしを 」との御製が伝わり、深い悔恨の念が思われる。代理として訪沖した皇太子明仁親王(当時)は沖縄入りし代表者と会見した際、「確かにお預かりしてまいりました」と手にしたお言葉をおしいただき、真摯にこれを代読した。

逸話[編集]

皇太子時代[編集]

  • 幼少時、養育係の足立たか(後の鈴木貫太郎夫人)を敬慕し、多大な影響を受けた[61]
  • 学習院初等科時代、「尊敬する人は誰か」という教師の質問に対し、生徒の全員が「明治天皇」を挙げたのに対し、裕仁親王一人だけ「源義経」を挙げた。教師が理由を聞くと、「おじじ様の事はよく知らないが、義経公の事はたかがよく教えてくれたから」と答えたという。
  • 学習院時代、学友たちがお互いを名字で「呼び捨て」で呼び合うことを羨ましがり、御印から「竹山」という名字を作り、呼び捨てにしてもらおうとした。(この提案に学友が従ったかどうかは不明)
  • 皇太子時代にイギリスを訪問した時、ロンドン地下鉄に初めて乗車した。この時改札切符駅員に渡すことを知らず、切符を取り上げようとした駅員ともみ合いになり(駅員は、この東洋人が日本の皇太子だとは知らなかった)、とうとう切符を渡さず改札を出た。この切符は後々まで記念品として保存されたという。
  • この外遊に際して、理髪師の大場秀吉が随行。大場は裕仁親王の即位後も専属理髪師として仕え続け、日本史上初の「天皇の理髪師」となった。天皇の専属の理髪師は戦前だけで5人交代している。この大場をはじめ、昭和天皇に仕えた近従は「天皇の○○」と呼ばれることが多い。
  • 皇太子時代から「英明な皇太子」として喧伝され、即位への期待が高かった。北海道、沖縄、台湾はじめ各地への行啓も行っている。北海道行啓では先住民族が丸木舟に乗って出迎えた。

天皇時代[編集]

戦前[編集]

  • 大正天皇が先鞭をつけた一夫一婦制を推し進めて、「側室候補」として「未婚で住み込み勤務」とされていた女官の制度を改め「既婚で、自宅通勤」を認めた。
  • 父・大正天皇について、激務に身をすり減らした消耗振りを想起して「父は天皇になるべきではなかった」と語ったことがある。長弟・秩父宮も同様の発言をしている。
  • 晩餐時、御前で東條英機杉山元の両大将が「酒は神に捧げるが、煙草は神には捧げない」「アメリカの先住民は瞑想するのに煙草を用いる」などと煙草の優劣について論争したことがあるが、自身は飲酒も喫煙もしなかった。酒に関しては、5歳の頃正月に小児科医から屠蘇を勧められ試飲したものの、悪酔いして寝正月を過ごす破目になり、以後だめになったと伝わっている。
  • 「天皇の料理番」秋山徳蔵晩餐会のメインディッシュであった肉料理に、天皇の皿だけ肉をくくっていたたこ糸を抜き忘れて供し、これに気付いて辞表を提出した際には、招待客の皿について同じミスがなかったかを訊ね、秋山がなかったと答えると「以後気をつけるように」と言って許したという。孫の紀宮清子内親王にも同様のエピソードが伝わっている。
  • 学習院在学中に古式泳法小堀流を学んだ。即位後、皇族でもできる軍事訓練として寒中古式泳法大会を考案した。御所には屋外プールが存在した。
  • アドルフ・ヒトラーからダイムラー・ベンツ社の最高ランクだったメルセデス・ベンツ・770(通称:グロッサー・メルセデス)を贈呈され乗っていたが、非常に乗り心地が悪かったため好まなかったと伝わる。このほか、菊紋をあしらったモーゼルなども贈られたといわれる。

戦時中[編集]

  • 対英米開戦後初の敗北を喫したミッドウェー海戦の敗北にも泰然自若たる態度を崩すことはなかったが、大戦中期のガタルカナルにおける敗北以降、各地で日本軍が連合国軍に押され気味になると言動に余裕がなくなったという。戦時中の最も過酷な状況の折、宮中の執務室で「この懸案に対し大臣はどう思うか…」などの独り言がよく聞こえたという[要出典]
  • 南太平洋海戦の勝利を「小成」と評し、ガダルカナル島奪回にいっそう努力するよう海軍に命じている。歴戦のパイロットたちを失ったことにも言及している。
  • ガダルカナル島の戦いでの飛行場砲撃成功の際、「初瀬八島の例がある。待ち伏せ攻撃に気をつけろ」と日露戦争の戦訓を引いて軍令部に警告、これは連合艦隊司令長官・山本五十六と司令部にも伝わっていた[62]。だが参謀・黒島亀人以下連合艦隊司令部は深く検討せず[63]、結果、待ち伏せていた米軍との間で第三次ソロモン海戦が発生する。行啓の際に度々お召し艦を務めた戦艦比叡」を失い、翌日には姉妹艦「霧島」も沈没、天皇の懸念は的中した。
  • 太平洋戦争史上最大の激戦といわれたペリリュー島の戦いの折には「ペリリューはまだ頑張っているのか」と守備隊長の中川州男大佐以下の兵士を気遣う発言をした。中川部隊への嘉賞は11度に及び、感状も3度も与えている。
  • 原爆や細菌を搭載した風船爆弾の製造を中止させたと伝わるなど、一般的には平和主義者と考えられているが、戦争開始時には国家元首として勝てるか否かを判断材料としている。戦時中は「どうやったら敵を撃滅できるのか」と質問することがあり、太平洋戦争開戦後は海軍の軍事行動を中心に多くの意見を表明し、積極的に戦争指導を行っている。陸軍の杉山参謀総長に対し戦略ミスを指弾する発言、航空攻撃を督促する発言なども知られる。
  • 陸海軍の仲違いや互いの非協力には内心忸怩たるものがあった。1943年(昭和18年)、第三南遣艦隊司令長官拝命の挨拶のために参内した岡新海軍中将に対して、赴任先のフィリピン方面での陸海軍の協力体制について下問があった。「頗る順調」という意味の返答をした岡中将に対して、「陸軍は航空機運搬船(あきつ丸神州丸など)を開発・運用しているが、海軍には搭載する艦載機のない空母がある。なぜ融通しないのか?」と更なる下問があった。 その時はそれ以上の追及はなかったものの、時期が夏場だったこともあり、返答に窮する岡中将の背中には見る見るうちに汗染みが広がっていくのが見えたという。
  • 戦争中、昭和天皇は靖国神社伊勢神宮などへの親拝や宮中祭祀を熱心に行い、戦勝祈願と戦果の奉告を行っていた。政治思想家の原武史は、昭和天皇が熱心な祈りを通じて「神力によつて時局をきりぬけやう」[64]とするようになったという。
  • 天皇として自分の意を貫いたのは、二・二六事件終戦の時だけであったと語っている(後述)。このことを戦後、徳富蘇峰は「イギリス流の立憲君主にこだわりすぎた」などと批判している。
  • 1945年(昭和20年)8月15日には、前日の14日レコードで録音された玉音放送が流され、自身の声で国民に終戦を告げた。この放送における『耐へ難きを耐へ、忍び難きを忍び』の一節は終戦を扱った報道特番などで度々紹介され、よく知られている。
  • 戦争を指導した側近や将官たちに対して、どのような感情を抱いていたのかを示す史料は少ない。『昭和天皇独白録』によれば、東條英機に対して「元来、東條という人物は話せばよく判る」、「東條は一生懸命仕事をやるし、平素いっていることも思慮周密で中々良い処があった」と評していた。もっとも、追い詰められた東條の苦しい言い訳には顔をしかめることもあったと伝わる。しかしながら、後に東條の葬儀には勅使を遣わしている。また、『昭和天皇独白録』などにより松岡洋右白鳥敏夫宇垣一成大島浩などには好感情を持っていなかったと推察されている。また、二・二六事件で決起将校たちに同情的な態度を取った山下奉文には、その人柄や国民的な人気、優れた将器にもかかわらず、この一件を理由として良い感情を持たなかったとも伝わる。マレー作戦の成功後も、天皇は山下に拝謁の機会を与えていない(もっとも、フィリピン転出の際には拝謁を果たしており、拝謁の機会を与えなかったのは東條英機の差し金によるものともいわれる)。なお晩年、「『この間出た猪木正道近衛文麿について書かれた本が正確だ』、と中曽根に伝えよ」と昭和天皇に命ぜられたと宮内庁長官・富田朝彦が当時の首相・中曽根康弘に言ったという。中曽根は『評伝 吉田茂』で批判的に書かれていた近衛と松岡についてのことだと理解した[65]

戦後[編集]

助け合って食糧難を乗り越えるようラジオで呼びかける昭和天皇(1946年(昭和21年)5月)
昭和天皇の全国巡幸(1949年(昭和24年)5月・久留米)
  • 1946年(昭和21年)初春、巡幸が開始された。当時のイギリス紙は「日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地への巡幸において、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている」と報じた。これに対して、王室が存在しないアメリカ人が中心となり組織されたGHQでは「神ではない、ただの猫背の中年男性」、「石の1つも投げられればいい」と天皇の存在感を軽視していたものも多かったが、巡幸の様子を見て大いに驚いた。
  • 天皇の余りの影響力に、1946年(昭和21年)12月の中国地方巡幸の兵庫県における民衆の国旗を振っての出迎えが指令違反であるとしてGHQ民生局は巡幸を中止させたが、国民からの嘆願や巡幸を求める地方議会決議が相次いだため、1948年(昭和23年)からの巡幸再開を許可した。
  • 初の日本社会党政権の片山哲に対しては、「誠に良い人物」と好感を持ちながらも、急激な改革に走ることを恐れ、側近を通じて自分の意向を伝えるなど、戦後においても政治関与を行っていたことが記録に残っている。また片山内閣の外相であった芦田均は内奏を望む昭和天皇への違和感を日記に記している[66]
  • 1947年(昭和22年)9月23日東京の天皇側近からGHQを通してアメリカ合衆国国務省に送られたいわゆる天皇メッセージによると、天皇はアメリカ合衆国が沖縄をはじめ琉球諸島を軍事占領し続けることを希望していた。天皇の意見によると、その占領は、アメリカ合衆国の利益になり、日本を守ることにもなり、沖縄の主権は、日本に残したまま長期租借という形で行われるべきであると考えられた。これは日本本土を守るため、沖縄を切り捨てたとする見方がある一方、租借という形で日本の主権を確保しておく見方もある[67]
  • 農地改革後の農村を視察していたアメリカ人が農作業をしていた老人に農地改革の成果とマッカーサーをどう思うかについて質問した時、マッカーサーをお雇い外国人と思いこんだ老人から「陛下も本当に良い人を雇ってくださいました」と真顔で答えられ返答に窮したという逸話がある[注釈 21]
  • 1949年(昭和24年)5月22日佐賀県基山町の因通寺への行幸では、ソ連による抑留下で共産主義と反天皇制を教え込まれ洗脳されたシベリア抑留帰還者が、天皇から直接言葉をかけられ、一瞬にして洗脳を解かれ「こんなはずじゃなかった、俺が間違っておった」と泣き出したことがある。天皇は引き揚げ者に「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」と言葉をかけ、長い年月の苦労を労った。同地ではまた、満州入植者の遺児を紹介されて「お淋しい」と言い落涙した。別の遺児には「また来るよ」と再会を約する言葉を残している。
  • 行幸に際しては、食事についてなど、迎える国民に多くの生活に密着した質問をした。行幸の時期も、東北地方行幸の際には近臣の涼しくなってからでいいのでは、との反対を押し切り「東北の農業は夏にかかっている」という理由で夏を選ぶなど、民情を心得た選択をし、国民は敬意を新たにした[68]
  • 巡幸での炭鉱訪問の際、労働者から握手を求められたことがある。この時にはこれを断り、「日本には日本らしい礼儀がありますから、お互いにお辞儀をしましょう」という提案をして実行した。
  • アメリカからの使節が皇居新宮殿について感想を述べた時、「前のはあなたたちが燃やしたからね」と皮肉を返したと伝わる。皇居新宮殿以前に起居していた御常御殿は戦災で焼失しており、吹上御所が完成する1961年(昭和36年)まで、天皇は戦時中防空壕として使用した御文庫を引き続いて住まいとしていた。
  • 1969年(昭和44年)1月2日に、皇居新宮殿が完成してから初の(1963年(昭和38年)以来の)皇居一般参賀で長和殿のバルコニーに立った際、パチンコ玉で狙われた(負傷せず)。これを機に長和殿のバルコニーに防弾ガラスが張られることになった。犯人は映画『ゆきゆきて、神軍』の主人公・奥崎謙三で、暴行の現行犯で逮捕された。
  • 皇居の畑で芋掘りをしていた時、日本では滅多に見ることのできない珍しい鳥であるヤツガシラが一羽飛来したのを発見。侍従に急ぎ双眼鏡を持ってくるように命じた。事情の分からない侍従は「芋を掘るのに双眼鏡がなぜいるのですか」と聞き返した。この時のヤツガシラは香淳皇后が日本画に描いている。
  • イギリスなど王制を採る国に対しては、比較的新興国の部類に入るイラン帝国なども含めて好感と関心を抱いていたという。主権回復後ほどない1956年(昭和31年)にはエチオピア皇帝ハイレ・セラシエの来日を迎え、満州国皇帝・溥儀以来の大掛かりな祝宴を張って皇帝を歓迎した。ハイレ・セラシエはその後、大阪万博にも見学に来日している。1975年(昭和50年)の沖縄国際海洋博覧会にはイラン帝国のパビリオンも出展された。強引な建国であった1976年(昭和51年)の中央アフリカ帝国建国に際しても祝電を送っている。
  • 1971年(昭和46年)6月佐藤栄作がマイヤー米国駐日大使と会談した際、天皇から「日本政府が、しっかりと蒋介石を支持する」よう促されたと伝えられていたことが、秘密情報解除されたアメリカ国務省の外交文書で判明。しかし、国連代表権は同年10月国連総会採択され毛沢東主席の中華人民共和国に移った[69]
  • 1978年(昭和53年)6月、中国の指導者として初めて訪日した中華人民共和国の鄧小平と会見した際、天皇から「あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない」と謝罪して鄧小平を感激させ[70]、中国政府から天皇の訪中が要請されるようになる[71]
  • 1973年(昭和48年)5月26日、認証式のため参内した防衛庁長官増原惠吉が内奏時の会話の内容を漏らすという事件があった。28日の新聞は天皇が「防衛問題は難しいだろうが、国の守りは大事なので、旧軍の悪いことは真似せず、いいところは取入れてしっかりやってほしい」と語ったと報じた。増原は、内奏の内容を漏らした責任を取って辞任することとなった(増原内奏問題)。
  • 生真面目な性格もあり、政争絡みで政治が停滞することを好まなかったことが窺える。『入江相政日記』には、いわゆる「四十日抗争」の際、参内した大平正芳に一言も返さないという強い態度で非難の意を示したことが記録されている。

公務におけるもの[編集]

  • 戦後の全国行幸で多くの説明を受けた際、「あ、そう」という一見すると無味乾燥な受け答えが話題になった。ただしこの受け答えは後の園遊会などでもよく使われており、説明に無関心だったというよりは単なる癖であったと思われる。本人も気にして「ああ、そうかい」と言い直すこともあった。寛仁親王も、「陛下は『あ、そう』ばかりで、けっして会話が上手な方ではなかった」と語っている。もっとも謁見の機会を得た細川隆元は、その「あ、そう」一つとっても、様々なバリエーションがあったと書いている。細川曰く「同感の時には、体を乗り出すか、『そう』のところが『そーう』と長くなる」とのこと。この「あ、そう」と独特の手の上げ方は非常に印象的で、国民に広く親しまれた。過去には、タモリが声真似をレパートリーとしていた。
  • 一方で表情は非常に豊かで、満面の笑みを浮かべる天皇の表情のアップ(GHQカメラマンディミトリー・ボリアが撮影、時期は1950年(昭和25年)- 1951年(昭和26年)頃)なども写真に残っている。ただし、終戦まで天皇の笑顔を写した写真は、検閲によって一切公開不許可であった[72]
  • 1982年(昭和57年)の園遊会黒柳徹子と歓談した際、黒柳が当時の自著『窓ぎわのトットちゃん』を「国内で470万部売って、英語で外国でも出ることになりました」と説明すると、天皇は「よく売れて」と答えた。あたかも天皇へ自著を自慢しているように映ってしまい、周囲の大爆笑に黒柳は照れ笑いを浮かべながら「(売上を)福祉のために使うことができました」と説明した。このほか、柔道家の山下泰裕が天皇から「(柔道は)骨が折れるだろうね」と声をかけられた際、文字通りに受け取ってしまい「はい、2年前に骨折しましたが、今は良くなって頑張っております」と朗らかに返答したエピソードがある。
  • 1983年(昭和58年)5月、行田市埼玉県立さきたま史跡の博物館へ行幸。天皇がガラスケースの中の金錯銘鉄剣を見ようとした時、記者団が一斉にフラッシュをたいてその様子を撮影しようとしたため「君たち、ライトをやめよ!」と記者団を叱った。フラッシュがガラスに反射して見えなかったのを怒ったものである。
  • 晩年、足元のおぼつかない天皇を思いやって「国会の開会式には無理に出席しなくとも……」の声が上がった。ところが天皇は「むしろ楽しみにしているのだから、楽しみを奪うようなことを言わないでくれ」と訴えたという。

家族・家庭[編集]

大正天皇の4人の皇子たち。左端が裕仁親王
1926年(大正15年)6月頃、成子内親王に目を細める皇太子夫妻(当時)
1952年(昭和27年)、皇太子明仁親王(当時)と共に
  • 3人の弟宮との関係は良好で、特に性格のほぼ正反対といってよい長弟・秩父宮雍仁親王とは忌憚の無い議論をよく交わしていたという。秩父宮が肺結核で療養することになると、「感染を避けるため」見舞いに行くことが許されなかったことを悔やんでいた。そのため、次弟・高松宮宣仁親王が病気で療養するとたびたび見舞いに訪れ、臨終まで立ち会おうとした。臨終の当日も見舞いに訪れている。また妃たち同士も仲が良く、これも関係を良好に保つ大きな助けとなった。
    • 皇太子明仁親王の結婚問題においては、三弟・三笠宮崇仁親王が皇族を代表して賛意を表明することで一件落着を助けるなど、天皇と連携しこれを補完する形で行動した。いわゆる富田メモとされる文書にも、昭和天皇が高松宮の人物評をしたとされる箇所があるが、「自分にはない軽妙に外国人と付き合い戦後一時期はこの国にも役に立った面があり評価している」などと、長所短所を述べ公平に評した記録が残っており[73]、忌憚なく意見を交わす仲であったことが窺える。
  • 香淳皇后のことは「良宮」(ながみや)と呼んでいた(久邇宮家出身の女王であることに因む)。一方、皇后は昭和天皇のことを「お上」と呼んでいた。夫婦仲は円満であった。結婚当初から、当時の男女として珍しく、手をつないで散歩に行くことがあった。
    • 婚約中の1921年(大正10年)に訪欧した時、婚約者とその妹たちへの土産に、銀製の手鏡・ブラシセットを購入した[74]。結婚後も、行幸先、植物採集に出かけた先では必ず「良宮のために」と土産を購入、採集した。また1971年(昭和46年)の訪欧時にも、オランダで抗議にあって憔悴した皇后を気遣ったエピソードがある。
    • 天皇の手の爪を切るのは、皇后が行っていた。侍医が拝診の際に、天皇の手の爪が長くなっていることを指摘すると「これは良宮(ながみや)が切ることになっている」と、医師に切らないよう意思表示した[75]
    • 初め皇女が4人続けて誕生したときには側近が側室を勧めたほどだが、これに対し「良宮でよい」と拒否した。側室候補として華族の娘3人の写真を見せられた時も「皆さん、なかなかよさそうな娘だから、相応のところに決まるといいね」と返答し写真を返したエピソードも残っている。また、皇后に対しては「皇位を継ぐ者は、秩父さんもおられれば、高松さんもおられる」「心配しないように」と励ましたという[76]
    • 第一皇子である継宮明仁親王が誕生した際には、香淳皇后と親王を見舞い「よかったね」と声をかけ退出した後、すぐ引き返し、再び同様に声をかけ皇后の労をねぎらった[77]
    • 香淳皇后の老いの兆候が顕著になった後も「皇后のペースに合わせる」[78]等と皇后を気遣っており、1987年(昭和62年)9月に行われた天皇の手術後の第一声も「良宮はどうしているかな」[79]であった。
  • 皇子女たちは近代以降初めて、両親の手元で皇后の母乳で育てられたが、学齢を迎える頃から内親王たちは呉竹寮で、親王たちは3歳頃より別々に養育され、家族とはいえ、一家が会えるのは週末のみになってしまった。しかし、会える時間が短いとはいえ、天皇が厚子内親王の勉強の質問に丁寧に答えたなどの逸話がある[80]
  • 父・大正天皇について、昭和天皇自身が記者会見で「皇太子時代は究めて快活にあらせられ極めて身軽に行啓あらせられしに、天皇即位後は万事窮屈にあらせられ(中略)ついに御病気とならせられたることまことに恐れ多きことなり」と回想している。
  • ひげを蓄えたのは、成婚後からで「成婚の記念に蓄えている」とも「男子、唯一つの特権だから」とも、その理由を説明している。他方、1986年(昭和61年)以降文仁親王が口ひげをたくわえ始めた時には「礼宮のひげはなんとかならんのか」と苦言を呈した。なおひげの手入れは「自ら電気カミソリで行っていた」という[81]
  • 皇太子・明仁親王を名代として篤く信頼しており「東宮ちゃんがいるから大丈夫」と手放しで賞賛していた。[要出典]
  • 成子内親王の長男・東久邇信彦に対し、結婚相手の条件として、「両親が健在な、健全な家庭の人であること」「相手の家にガン系統がないこと」等を伝え、「条件に合えば自分の好きな人で良い」とした[75]

人物像[編集]

生活・趣味[編集]

1935年、東京駅満州国皇帝溥儀の到着を待つ間、カメラに向けて破顔する昭和天皇。この写真は当時新聞掲載を差し止められた[82]
  • 帝王の趣味として、ゴルフを勧められ1917年(大正6年)の皇太子時代よりゴルフを行っていた。皇太子は病弱であり、結核を予防するという意味もあったという。皇太子はゴルフに熱心となり、欧州旅行中も行われ、また、来日中の英国皇太子(後のエドワード8世)と1922年(大正11年)4月19日、プレーされている[83][注釈 22]。良子妃も皇太子から教えられゴルフを行っている[84]。赤坂離宮に6ホール、那須御用邸に9ホール、吹上御苑に最初4コース、のち9コースのゴルフコースでプレイされ残された記録も多い。成績として9コース、58,51,54、良子妃の60という記録がある。満州事変の後、中止され、吹上御苑コースなども廃止された[85][注釈 23]
  • 生物学研究所の顕微鏡を古くなっても買い替えることはなく、鉛筆は短くなるまで使い、ノートは余白をほとんど残さず、洋服の新調にも消極的であった[86]
  • 不自然なものを好まず、盆栽を好まなかった[87]
  • 晩年の昭和天皇は、芋類・麺類(蕎麦)・肉料理・鰻・天ぷら・乳製品・チョコレートの順に好物であったとされる[88]。月一回の蕎麦が大変な楽しみで、配膳された時には御飯を残して蕎麦だけを食べたという。猫舌については、浜名湖で焼きたての蒲焼を食べて火傷をした逸話が伝わる。このほか、すき焼きも好んだと伝わる。このほか、食に関する逸話は非常に多い。
  • 朝食にハムエッグを食べることを好んだという。 戦後はオートミールとドレッシング抜きのコールスローにトースト2枚の朝食を晩年まで定番とした。
  • 1964年(昭和39年)に下関に行幸した際には、中毒の恐れがあるからとフグを食べられないことに真剣に憤慨し、自分たちだけフグを食べた侍従たちに「フグには毒があるのだぞ」と恨めしそうに言ったという逸話もある。その一方で同所ではイワシなど季節の魚に舌鼓を打ったという。
  • 宮中にフグが献上された場合も同じ理由で食すことを止められ、ときには「資格を持った調理人が捌いたフグを食べるのに何の問題があるのか」「献上した人が逆臣だとでも言うのか」と侍医を問い詰めることもあった。しかし、ついに生涯、食べることができなかった。
  • 1926年(大正15年)5月、摂政宮として岡山・広島・山口3県へ行啓の際、お召艦となった戦艦長門」で将兵の巡検後タバコ盆が出された甲板で「僕は煙草はのまないからタバコ盆は煙草呑みにやろう」と、(「朕」ではなく)はっきり「僕」と言うのを当時主計中尉で長門勤務だった出本鹿之助が聞いている[89]
  • 見学した新幹線の運転台が気に入り、侍従に時間を告げられてもしばらくそこから離れなかったこともある。訪欧時にもフランスで鯉の餌やりに熱中し、時間になってもその場を離れなかったエピソードがある。
  • スポーツに関しては「幼いときから色々やらされたが、何一つ身に付くものはなかった」と発言した。自身は乗馬が好き(軍人として必要とされたという側面もある)で、障害飛越などの馬術を習得しており、戦前はよく行っていた。戦後でも記念写真撮影に際して騎乗することがあった。また水泳(古式泳法)も得意で、水球を楽しむ写真も残っている。
  • デッキゴルフ・ビリヤードを好み、戦艦「比叡」を御召艦にしていた際、侍従を相手に興じている[90]。乗艦時は無表情だった天皇が、この時は屈託もなく笑って楽しんでいたという[91]
  • 映画が大の好みであった。ベルリン五輪記録映画『民族の祭典』やヴィリ・フォルスト監督の『未完成交響楽』(オーストリア映画)、ディアナ・ダービン主演の『オーケストラの少女』なども鑑賞されたと、戦前の海軍侍従武官であった山澄貞次郎海軍少将が回想記に綴っている[92]
  • 1975年(昭和50年)10月31日の記者会見で「テレビはどのようなものをご覧になるか」という質問に対し、微笑を浮かべ身を乗り出して、「テレビは色々見てはいますが、放送会社の競争がはなはだ激しいので、今どういう番組を見ているかという事には答えられません」と微笑みつつ冗談交じりに返した。記者達はこの思わぬ天皇の気遣いに大爆笑した[9]。現在では、側近の日記が明らかになることによってどのような番組を見ていたかが明らかになっている[93]
  • テレビ番組ではNHK朝の連続テレビ小説と『水戸黄門』が好きだったとされる[87]。『おしん』については「ああいう具合に国民が苦しんでいたとは、知らなかった」と感想を述べたという[94]。テレビ番組に関してはこの他『自然のアルバム』などもよく視聴した。意外なところでは『プレイガール』も視聴したことがあるという[95]。『刑事コロンボ』が好きで、訪米の際にはピーター・フォークを昼食会に招待しようと希望した[96]という記事も有るが、訪米直前のニューズウィークのインタビューでは、国民に人気のあることは知っているが観たことはないと答えている[97]
  • テレビの被写体になることに関しては、『皇室アルバム』のプロデューサーを務めた古山光一は、「秋田国体に行かれた時に、小雨が降って侍従が傘を差し出したら、強風で傘が飛び、陛下の帽子も飛ばされた映像もあるんです。戦前なら即NGでしょうが、陛下はそれをご覧になって『おもしろい映像だったね』とおっしゃったそうです。そういうお声を聞くと侍従も困るといえません。昭和天皇の人間性で、この番組は、救われてきた気がします」と振り返っており、天皇皇族の動静がテレビで報道されることに一定の理解を示していた[98]
  • 好角家として知られる昭和天皇は、当時の日本相撲協会理事長・春日野清隆が「蔵間は大関になります」と語った言葉をのちのちまで覚えていたらしく、あるとき「蔵間、大関にならないね」とこぼした。春日野は「私は陛下に嘘を申し上げました」と言って謝罪し、その後、蔵間を理事長室へ呼んで叱責したという逸話がある。

生物・自然[編集]

  • 海の生物が好きであり、臣下との会話で海の生物の話題が出ると喜んだという。趣味として釣りも楽しんだ。沼津において、常陸宮正仁親王を伴って釣りに興じたことがある。釣った魚は研究のため、全て食べる主義であった。終戦直後には「ナマコが食べられるのだから、ウミウシも食べられるはずだ」と、葉山御用邸で料理長にウミウシを調理させ食した(後に「あまり美味しい物ではなかった」と述べた)という。採集品については食べることはなかったともいわれ、船頭が献上した大ダイをそのまま標本にしてしまい、船頭が惜しがったというエピソードも伝わる。
  • 南方熊楠のことは後々まで忘れることはなく、その名を御製に詠んでいる。南方および弟子からは都合四回にわたって粘菌の標本の献呈を受けている。
  • テツギョ」というキンギョフナの雑種とされる魚を飼育していた。後にDNA鑑定でキンブナリュウキンの雑種と判明。
  • 海洋生物学を研究する関係からか、英語よりフランス語を得意としたと伝わる。訪欧時フランスのバルビゾンのレストラン「バ・ブレオー」でエスカルゴを食べる際、その個数について「サンク(仏語で5つ)」と「3個」をかけて近習をからかったことがある[75][99]
  • 武蔵野の自然を愛し、ゴルフ場に整備されていた吹上御苑使用を1937年(昭和12年)に停止し、一切手を加えないようにした。その結果、現在のような森が復元された。また「雑草という植物はない」と言ったとされることでも有名。

短歌[編集]

昭和天皇は生涯に約1万首の短歌を詠んだといわれている。うち公表されているものは869首。これは文学的見地からの厳選というよりは立場によるところが大きい。

近代短歌成立以前の御歌所派の影響は残るものの戦後は、木俣修岡野弘彦ら現代歌人の影響も受けた。公表された作品の約4割は字余りで、ほとんど唯一といってよい字足らずは、自然児の生物学者・南方熊楠に触発されたもののみである。

昭和天皇の歌集
  • みやまきりしま:天皇歌集(毎日新聞社編、1951年11月、毎日新聞社)
  • おほうなばら:昭和天皇御製集(宮内庁侍従職編、1990年10月、読売新聞社)
  • 昭和天皇御製集(宮内庁編、1991年7月、講談社)
昭和天皇・香淳皇后の歌集
  • あけぼの集:天皇皇后両陛下御歌集(木俣修編、1974年4月、読売新聞社)

生物学研究[編集]

興居島ユムシを採取する昭和天皇(1950年(昭和25年)3月19日
研究室内の昭和天皇(1950年)

昭和天皇は生物学者として海洋生物や植物の研究にも力を注いだ。1925年(大正14年)6月に赤坂離宮内に生物学御研究室が創設され、御用掛の服部廣太郎の勧めにより、変形菌類(粘菌)とヒドロ虫類(ヒドロゾア)の分類学的研究を始めた。1928年(昭和3年)9月には皇居内に生物学御研究所が建設された。1929年(昭和4年)には自ら在野の粘菌研究第一人者・南方熊楠の下を訪れて進講を受けた。もっとも、時局の逼迫によりこれらの研究はままならず、研究成果の多くは戦後発表されている。ヒドロ虫類についての研究は裕仁(あるいは日本国天皇)の名で発表されており、『日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討』をはじめ、7冊が生物学御研究所から刊行されている。また、他の分野については専門の学者と共同で研究をしたり、採集品の研究を委託したりしており、その成果は生物学御研究所編図書としてこれまで20冊刊行されている。

1934年(昭和9年)には、海中生物の採集に使うための天皇陛下植物採集船として「葉山丸」が建造された。これは横須賀海軍工廠で建造された全長15.1メートルの和船型内火艇で、宮内省御用船として管理されていた。第2次世界大戦中には海軍兵学校に下賜され、戦後は英豪軍が接収し瀬戸内海でヨットとして使用していたが、1949年に退役したあとは海上保安庁の管理下に入り、復元工事ののち、再び採集作業に使われるようになった。1956年には、同庁の23メートル型港内艇「むらくも」を改装・改名した「はたぐも」がその役割を引き継いだ。そして1971年には、新造船として「まつなみ」が建造されて、3代目の採集船となった。これらの艇は、普段は通常の巡視艇と同様の警備救難業務に当たっていた。なお「はたぐも」の就役後は「葉山丸」は通常の巡視艇として用いられていたが、1967年に船体を規格12メートル型に改装した(しらぎく型)。この際に主機関は引き継がれたが、旧船体は役目を終えたことから、大山祇神社愛媛県今治市)の海事博物館に保存、公開されている[100]

昭和天皇の生物学研究については、山階芳麿黒田長礼の研究と同じく「殿様生物学」の流れを汲むものとする見解や、「その気になれば学位を取得できた」とする評価がある。一方、昭和天皇が研究題目として自然科学分野を選んだのは、純粋な個人的興味というよりも、万葉集以来の国見の歌同様、自然界の秩序の重要な位置にいるシャーマンとしての役割が残存しているという見解もある。これについては北一輝が昭和天皇を「クラゲの研究者」と呼び密かに軽蔑していたという渡辺京二の示すエピソードが興味深いが、数多く残されている昭和天皇自身が直接生物学に関して行った発言には、この見解を肯定するものは見当たらない。昭和天皇の学友で掌典長も務めた永積寅彦は生物学研究の上からも堅い信仰を持っていたのではないかと語っている[101]。また、詠んだ和歌の中で、干拓事業の進む有明海の固有の生物の絶滅を憂うる心情を詠いつつ、その想いを「祈る」と天皇としては禁句とされる語を使っている点に特異な点があることを、自然保護運動家の山下弘文などが指摘している。

昭和天皇の海洋生物研究の一部は今上天皇の研究とともに、新江ノ島水族館神奈川県藤沢市)で公開されている。

  • 昭和天皇の研究著書
    • 日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討(1967年2月)
    • 天草諸島のヒドロ虫類(1969年9月)
    • カゴメウミヒドラClathrozoon wilsoni Spencerに関する追補(1971年9月)
    • 小笠原諸島のヒドロゾア類(1974年11月)
    • 紅海アカバ湾産ヒドロ虫類5種(1977年11月)
    • 伊豆大島および新島のヒドロ虫類(1983年6月)
    • パナマ湾産の新ヒドロ虫Hydractinia bayeri n.sp.ベイヤーウミヒドラ(1984年6月)
    • 相模湾産ヒドロ虫類(1988年8月)
    • 相模湾産ヒドロ虫類 2(1995年12月)
  • 昭和天皇と専門の学者の共同研究
    • 那須の植物(1962年4月、三省堂)
    • 那須の植物 追補(1963年8月、三省堂)
    • 那須の植物誌(1972年3月、保育社
    • 伊豆須崎の植物(1980年11月、保育社)
    • 那須の植物誌 続編(1985年11月、保育社)
    • 皇居の植物(1989年11月、保育社)
  • 昭和天皇の採集品を基に専門の学者がまとめたもの
    • 相模湾産後鰓類図譜(馬場菊太郎)(1949年9月、岩波書店)
    • 相模湾産海鞘類図譜(時岡隆)(1953年6月、岩波書店)
    • 相模湾産後鰓類図譜 補遺(馬場菊太郎)(1955年4月、岩波書店)
    • 増訂 那須産変形菌類図説(服部廣太郎)(1964年10月、三省堂)
    • 相模湾産蟹類(酒井恒)(1965年4月、丸善)
    • 相模湾産ヒドロ珊瑚類および石珊瑚類 (江口元起)(1968年4月、丸善)
    • 相模湾産貝類(黒田徳米・波部忠重・大山桂) (1971年9月、丸善)
    • 相模湾産海星類(林良二)(1973年12月、保育社)
    • 相模湾産甲殻異尾類 (三宅貞祥)(1978年10月、保育社)
    • 伊豆半島沿岸および新島の吸管虫エフェロタ属(柳生亮三)(1980年10月、保育社)
    • 相模湾産蛇尾類(入村精一)(1982年3月、丸善)
    • 相模湾産海胆類(重井陸夫)(1986年4月、丸善)
    • 相模湾産海蜘蛛類(中村光一郎)(1987年3月、丸善)
    • 相模湾産尋常海綿類(谷田専治)(1989年11月、丸善)
  • 昭和天皇が発表したヒドロ虫類の新種
    • Clytia delicatula var. amakusana Hirohito, 1969 アマクサウミコップ
    • C.multiannulata Hirohito, 1995 クルワウミコップ
    • Corydendrium album Hirohito, 1988 フサクラバモドキ
    • C. brevicaulis Hirohito, 1988 コフサクラバ
    • Corymorpha sagamina Hirohito, 1988 サガミオオウミヒドラ
    • Coryne sagamiensis Hirohito, 1988 サガミタマウミヒドラ
    • Cuspidella urceolata Hirohito, 1995 ツボヒメコップ
    • Dynamena ogasawarana Hirohito, 1974 オガサワラウミカビ
    • Halecium perexiguum Hirohito, 1995 ミジンホソガヤ
    • H. pyriforme Hirohito, 1995 ナシガタホソガヤ
    • Hydractinia bayeri Hirohito, 1984 ベイヤーウミヒドラ
    • H. cryptogonia Hirohito, 1988 チビウミヒドラ
    • H. granulata Hirohito, 1988 アラレウミヒドラ
    • Hydrodendron leloupi Hirohito, 1983 ツリガネホソトゲガヤ
    • H. stechowi Hirohito, 1995 オオホソトゲガヤ
    • H. violaceum Hirohito, 1995 ムラサキホソトゲガヤ
    • Perarella parastichopae Hirohito, 1988 ナマコウミヒドラ
    • Podocoryne hayamaensis Hirohito, 1988 ハヤマコツブクラゲ
    • Pseudoclathrozoon cryptolarioides Hirohito, 1967 キセルカゴメウミヒドラ
    • Rhizorhagium sagamiense Hirohito, 1988 ヒメウミヒドラ
    • Rosalinda sagamina Hirohito, 1988 センナリウミヒドラモドキ
    • Scandia najimaensis Hirohito, 1995 ナジマコップガヤモドキ
    • Sertularia stechowi Hirohito, 1995 ステッヒョウウミシバ
    • Stylactis brachyurae Hirohito, 1988 サカズキアミネウミヒドラ
    • S. inabai Hirohito, 1988 イナバアミネウミヒドラ
    • S. monoon Hirohito, 1988 タマゴアミネウミヒドラ
    • S. reticulata Hirohito, 1988 アミネウミヒドラ
    • S. (?) sagamiensis Hirohito, 1988 サガミアミネウミヒドラ
    • S. spinipapillaris Hirohito, 1988 チクビアミネウミヒドラ
    • Tetrapoma fasciculatum Hirohito, 1995 タバヨベンヒメコップガヤ
    • Tripoma arboreum Hirohito, 1995 ミツバヒメコップガヤ
    • Tubularia japonica Hirohito, 1988 ヤマトクダウミヒドラ
    • Zygophylax sagamiensis Hirohito, 1983 サガミタバキセルガヤ

戦争責任論[編集]

概要[編集]

大日本帝国憲法(明治憲法)において、第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」を根拠として、軍の最高指揮権である統帥権は天皇大権とされ、また第12条「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」を根拠に軍の編成権も天皇大権の一つとされた。政府および帝国議会から独立した、編成権を含むこの統帥権の独立という考え方は、1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約の批准の際に、統帥権干犯問題を起こす原因となった。

  • 統帥権が、天皇の大権の一つ(明治憲法第11条)であったことを理由に、1931年(昭和6年)の満州事変から日中戦争支那事変)、さらに太平洋戦争大東亜戦争)へと続く、「十五年戦争」(アジア太平洋戦争)の戦争責任をめぐって、最高指揮権を持ち、宣戦講和権を持っていた天皇に戦争責任があったとする主張
  • 大日本帝国憲法第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と、規定された天皇の無答責を根拠に(あるいは軍事などについての情報が天皇に届いていなかったことを根拠に)、天皇に戦争責任を問うことはできないとする主張

との間で、論争がある。

美濃部達吉らが唱えた天皇機関説によって、明治憲法下で天皇は「君臨すれども統治せず」という立憲主義君主であったという説が当時の憲法学界の支配的意見であったが、政府は当時、「国体明徴声明」を発して統治権の主体が天皇に存することを明示し、この説の教示普及を禁じた。

終戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)において、ソビエト連邦オーストラリアなどは天皇を「戦争犯罪人」として裁くべきだと主張したが、連合国最高司令官であったマッカーサーらの政治判断(昭和天皇の訴追による日本国民の反発への懸念と、円滑な占領政策遂行のため天皇を利用すべきとの考え)によって訴追は起きなかった。

昭和天皇崩御直後の、1989年(平成元年)2月14日、参議院内閣委員会にて、当時の内閣法制局長官・味村治は、大日本帝国憲法第3条により無答責・極東軍事裁判で訴追を受けていないの二点から、国内法上も国際法上でも戦争責任はないという解釈を述べている。

マッカーサーに対する発言に関して[編集]

『マッカーサー回想記』によれば、昭和天皇と初めて面会した時、マッカーサーは天皇が保身を求めるとの予想をしていたが、天皇は、

「私は国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の採決にゆだねるため、あなたをお訪ねした」

と発言したとされる。この会談内容については全ての関係者が口を噤み、否定も肯定もしないため、真偽の程は明らかではない。昭和天皇自身は、1975年(昭和50年)に行われた記者会見でこの問題に関する質問に対し、「(その際交わした外部には公開しないという)男同士の約束ですから」と述べている。翌1976年(昭和51年)の記者会見でも、「秘密で話したことだから、私の口からは言えない」とした。

その後、現代史家・秦郁彦が、会見時の天皇発言を伝える連合国軍最高司令官政治顧問ジョージ・アチソンの国務省宛電文を発見したことから、現在では発言があったとする説が有力である。また、会見録に天皇発言が記録されていなかったのは、重大性故に記録から削除されたことが通訳を務めた松井明の手記で判明し、当時の侍従長・藤田尚徳の著書もこの事実の傍証とされている。

また、当時の宮内省総務課長で、随行者の一人であった筧素彦は、最初に天皇と会った時のマッカーサーの傲岸とも思える態度が、会見終了後に丁重なものへと一変していたことに驚いたが、後に『マッカーサー回想記』等で発言の内容を知り、長年の疑問が氷解したと回想している[60]

天皇自身の発言[編集]

1975年(昭和50年)9月8日・アメリカ・NBC放送のテレビインタビュー[21]
[記者] 1945年の戦争終結に関する日本の決断に、陛下はどこまで関与されたのでしょうか。また陛下が乗り出された動機となった要因は何だったのですか
[天皇] もともと、こういうことは内閣がすべきです。結果は聞いたが、最後の御前会議でまとまらない結果、私に決定を依頼してきたのです。私は終戦を自分の意志で決定しました。(中略)戦争の継続は国民に一層の悲惨さをもたらすだけだと考えたためでした。
1975年(昭和50年)9月20日・アメリカ・ニューズウィークのインタビュー[21]
[記者] (前略)日本を開戦に踏み切らせた政策決定過程にも陛下が加わっていたと主張する人々に対して、どうお答えになりますか?
[天皇] (前略)開戦時には閣議決定があり、私はその決定を覆せなかった。これは帝国憲法の条項に合致すると信じています。
1975年(昭和50年)9月22日・外国人特派団への記者会見[21]
[記者] 真珠湾攻撃のどのくらい前に、陛下は攻撃計画をお知りになりましたか。そしてその計画を承認なさいましたか。
[天皇] 私は軍事作戦に関する情報を事前に受けていたことは事実です。しかし、私はそれらの報告を、軍司令部首脳たちが細部まで決定したあとに受けていただけなのです。政治的性格の問題や軍司令部に関する問題については、私は憲法の規定に従って行動したと信じています。
1975年(昭和50年)10月31日、訪米から帰国直後の記者会見[21][102]
[問い] 陛下は、ホワイトハウスの晩餐会の席上、「私が深く悲しみとするあの戦争」というご発言をなさいましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味ですか?また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか?(タイムズ記者)
[天皇] そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。
[問い] 戦争終結にあたって、広島に原爆が投下されたことを、どのように受けとめられましたか? (中国放送記者)
[天皇] 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております。
1981年(昭和56年)4月17日・報道各社社長との記者会見[21]
[記者] 八十年間の思い出で一番楽しかったことは?
[天皇] 皇太子時代、英国の立憲政治を見て、以来、立憲政治を強く守らねばと感じました。しかしそれにこだわりすぎたために戦争を防止することができませんでした。私が自分で決断したのは二回(二・二六事件第二次世界大戦の終結)でした。

陵・霊廟・記念館[編集]

(みささぎ)は、東京都八王子市長房町の武蔵陵墓地にある武蔵野陵(むさしののみささぎ)に治定されている。公式形式は上円下方。

皇居宮中三殿(皇霊殿)においても、歴代天皇・皇族として祀られている。

2005年(平成17年)11月27日、東京都立川市国営昭和記念公園の「みどりの文化ゾーン・花みどり文化センター」内に、「昭和天皇記念館」が開館し、財団法人昭和聖徳記念財団が運営を行っている。館内には「常設展」として、昭和天皇の87年間に渡る生涯と、生物学の研究に関する資料や品々、写真などが展示されている。

敬称[編集]

平成に入ってからは「昭和天皇」が一般的であるが、敬称(「陛下」を付けた呼び方)で「昭和の天皇陛下」や「先帝陛下」と称される場合もある。また、「昭和天皇」という呼称は、それ自体に敬意が込められた追号であるため、昭和天皇陛下とは言わない。

皇后美智子は義父に当たる昭和天皇を「先帝陛下」と公の場では呼んでいる。

財産[編集]

軍隊の階級[編集]

日本軍の階級[編集]

外国軍の階級[編集]

栄典[編集]

勲章[編集]

外国勲章[編集]

著書[編集]

自身の著書[編集]

  • 裕仁『日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討』(1967年、生物学御研究所
  • 裕仁『相模湾産ヒドロ虫類』(1988年、生物学御研究所)
  • 宮内庁侍従職編『おほうなばら-昭和天皇御製集』(1990年、読売新聞社ISBN 4643900954
  • 昭和天皇(山田真弓補足修正)『相模湾産ヒドロ虫類2』(1995年、生物学御研究所)

その他の著書[編集]

脚注[編集]

出典[編集]

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  1. ^ 昭和天皇実録 第1、41ページ
  2. ^ 『昭和天皇実録・第一』宮内庁編、東京書籍、2015年、p.10。
  3. ^ 実録・第1、11-12ページ
  4. ^ 英国官報ロンドン・ガゼット
  5. ^ 皇太子裕仁親王攝政ニ任ス(大正10年11月25日詔勅、Wikisource-logo.svg 原文
  6. ^ 英国官報ロンドン・ガゼット
  7. ^ His Majesty's Stationery Office ed. The Quarterly Army List October 1941
  8. ^ His Majesty's Stationery Office ed. The Quarterly Army List October 1941-Foreign Sovereigns
  9. ^ a b 日本記者クラブ記者会見 アメリカ訪問を終えて 昭和天皇・香淳皇后両陛下 (PDF)”. 日本記者クラブ (1975年10月31日). 2006年4月5日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2014年8月22日閲覧。
  10. ^ 1989年2月23日 読売新聞「『昭和天皇』副葬品明らかに ご採集の貝標本、大相撲番付表、ご愛用顕微鏡」
  11. ^ The London Gazette: (Supplement) no. 32317. p. 3737. 1921年5月9日2016年7月21日閲覧。
  12. ^ The London Gazette: no. 33619. p. 4028. 1930年6月27日2015年9月27日閲覧。
  13. ^ “「昭和天皇実録」完成 編さん24年、1万2000ページ”. 東京新聞. (2014年8月22日). http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014082202000122.html 2014年8月24日閲覧。 
  14. ^ 真鍋光之; 古関俊樹 (2014年8月22日). “皇室:「昭和天皇実録」完成 両陛下に提出 60冊1万2000ページ−−宮内庁”. 毎日新聞 (はてな). http://b.hatena.ne.jp/entry/mainichi.jp/shimen/news/20140822ddm001040179000c.html 2014年8月24日閲覧。 
  15. ^ 『山階宮三代』下、山階会 編、精興社1982年、291頁。
  16. ^ 高橋(1988年)「昭和46年(1971年)4月20日の記者会見」175頁。
  17. ^ 高橋(1988年)「昭和53年(1978年)12月3日、須崎ご用邸での記者会見」266頁。
  18. ^ 高橋(1988年)「昭和57年(1982年)9月7日、須崎ご用邸での記者会見」330-331頁。
  19. ^ a b 1989年1月7日 読売新聞「昭和天皇のご生涯 戦争の暗い時代から平和の象徴へ多難な軌跡」
  20. ^ 宮内庁『昭和天皇実録 第1』598ページ
  21. ^ a b c d e f 『陛下、お尋ね申し上げます —記者会見全記録と人間天皇の軌跡』高橋絃著、文春文庫[要ページ番号]
  22. ^ 本庄繁日記』昭和11年(1936年)2月27日付。
  23. ^ 藤田 (1961)「天皇の終戦秘密工作」43-54頁。
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    “自分がコロンボだったことも忘れ… ピーター・フォークさん、アルツハイマーかなり悪化していた”. MSN産経ニュース. (2011年6月26日). オリジナル2011年6月29日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110629051219/http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110626/ent11062613080008-n2.htm 2014年8月23日閲覧。 
    昭和天皇もコロンボのファンで、1975年に訪米された際は、実現こそしなかったがフォークさんが昼食会に招待されたこともあった。
  97. ^ 【再録】1975年、たった一度の昭和天皇単独インタビュー ワールド 最新記事 ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
    ――(日本で人気のあった)アメリカのドラマ『刑事コロンボ』を陛下も見るそうだが、どんなところを楽しんでおられるのか。
    時間の都合がつかず、私自身はその番組を見ることはできませんでしたが、一般の国民が非常に楽しんで見たと聞いています。
  98. ^ 『文芸春秋』第90巻第3号、文芸春秋、2012年3月P320の3段組み行配列のうち2段目の5行目から下3段目の3行目まで。奥野修司「「皇室アルバム」を救った昭和天皇の一言」より
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  110. ^ Naval History: Hirohito Showa.

注釈[編集]

  1. ^ 世数は皇統譜による
  2. ^ このとき万歳の音頭をとったのは富美宮・泰宮の御養育主任であった林友幸であるが、これは「その年の元日の参賀に一番乗りした人物が男性であれば産まれるのは親王だろう」と女官らが予想していたところ、林が一番乗りを果たし、その後実際に親王が誕生したたことを、彼が祝宴の間、自分の自慢話として話していて、それなら、と宮内大臣に音頭を取るよう促されたためだった。
  3. ^ (昭和とは)別の元号(光文)を予定していたが、正式発表前に外部に漏れ、東京日日新聞に発表されてしまったので昭和に変更したとの説もある(光文事件)。
  4. ^ 1929年(昭和4年)以降は皇居内で田植えを行った。
  5. ^ 当時、NHKの記者であった橋本大二郎(後に高知県知事などを歴任)は、藤森昭一宮内庁長官(当時)や当時の皇室医務主管(兼侍医長)が発表した経緯から、多臓器不全の状態だったのではないか、と語っている。また、腫瘍の原発部位が十二指腸なのか膵臓なのかが分からなかったようだとも語っている。
  6. ^ 木戸幸一日記』一月六日(土)下巻 一一六四頁。一月三十日(火)下巻 一一六七頁によれば、近衛が木戸に斡旋を求めている。上巻 三一頁の「解題」(岡義武による序文)によれば、木戸と宮内大臣松平恒雄とが協議し、重臣が個々に拝謁することになった。
  7. ^ 木戸が参内を制限していたため、近衛文麿が運動して重臣との会談を実現させたという説があるが、昭和天皇の侍従長を務めた藤田尚徳はこれを信じていない[23]
  8. ^ 議論は午前10時半からの最高戦争指導会議から2回の閣議、御前会議を経て全て終了したのが翌10日午前2時20分であった。会議により出席者は異なるが、最高戦争指導会議では受諾賛成が鈴木(首相)、東郷外相)、米内海相)、受諾反対が阿南陸相)、梅津(参謀総長)、豊田(軍令部総長)であった。御前会議ではこれに平沼(枢密院議長)が加わる。鈴木が六閣僚に意見を聞くと、平沼が軍代表に質問した後に賛成に回り、3対3となった。このとき平沼も天皇に御聖断を求めている。2時間にわたる会議の末に鈴木が行動を起した。
  9. ^ 全国の地方部隊にも、行事の中止・派手なイベントの自粛を通達している。
  10. ^ 中止したのは大妻女子大学(校舎が皇居近くにあるため)、防衛医科大学校(防衛庁からの行事自粛通知)[46]
  11. ^ 代わりに「謹迎新年」「清嘉新春」が使用された[47]
  12. ^ 日本では癌などの重篤な病名を告知するか否かが医療現場で問題となっている。
  13. ^ 崩御時の新聞号外にこれらの断り書きが記されている。毎日新聞ほか。
  14. ^ 6時36分18秒に緊急放送チャイムとともに「臨時ニュース」と表示されて全波同時放送になり、7時55分の宮内庁長官藤森昭一の崩御発表を受けて緊急放送チャイムとともに黒地に白で「天皇陛下 崩御」と表示された。
  15. ^ 緊急放送チャイムとともに「新元号決まる」と表示され、教育テレビ・ラジオ第2・衛星第2でも放送される。
  16. ^ 1989年(昭和64年)1月7日のNHK朝の『ワイドニュース』(6時36分から3時間24分間)の平均視聴率は32.6%、大喪の礼の日(2月24日)のNHK『ニューススペシャル・昭和天皇大喪の日』(8時30分から4時間40分間)の平均視聴率は44.5%を記録した(視聴率はビデオリサーチ関東地区調べによる)。
  17. ^ 沖縄タイムス琉球新報は、昭和天皇の死に際して、沖縄県民の反天皇感情から「崩御」の文字を使うことは天皇の神聖視と映るため、反発を招くと判断したため、「ご逝去」という表現をした。また日本新聞協会加盟の新聞社では、前述2紙の他に苫小牧民報日本海新聞長崎新聞も「ご逝去」として報道した。
  18. ^ 宮内庁の正式な発表による午前7時55分の死去を含む。
  19. ^ 皇太子の外遊の初例は、明治40年(1907年)の嘉仁親王(後の大正天皇)による大韓帝国訪問である。この当時の大韓帝国は日韓協約により、事実上大日本帝国保護国であったが、正式にはまだ併合前の「外国」であった。
  20. ^ これ以前に実現しなかった理由には、国事行為の臨時代行に関する法律が整備されていなかったという事情もあった。なお、1973年(昭和48年)、1974年(昭和49年)にも訪米が計画されたが、調整不足もあって実現には至らなかった。
  21. ^ 日本についてのアメリカンジョークとしても同様の内容が伝わる。
  22. ^ 結果は2人ずつのチームのプレーで英国側が1upであった[83]
  23. ^ ただし、事変直後ではない[85]

参考文献[編集]

史料・回想録[編集]

側近の日記[編集]

研究文献[編集]

その他[編集]

関連項目[編集]

昭和天皇を扱った作品[編集]

映画
テレビドラマ
映像
  1. ^ [[2]]昭和天皇記念館館内案内図参照

外部リンク[編集]