元号

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元号(げんごう)は、特定の年代にを単位として付けられる称号である。年号(ねんごう)とも呼ばれることもあるが、元号のみならず、紀年法の名称(西暦や皇紀など)を「年号」と呼ぶ場合もある。

総説[編集]

元号は紀年法の一種であるが、西暦イスラム紀元皇紀(神武紀元)などの無限のシステム(紀元)とは異なり、皇帝など君主即位、また治世の途中にも随意に行われる変更(改元)によって再度元年から数え直され(リセット)、名称も改められるという、有限のシステムである。元号の元年は「1年」に当たる。英訳すると、号は「era name」というのに対して、号は「finite era name」や「regnal year」となる。

君主が特定の時代に名前を付ける行為は、君主が空間と共に時間まで支配するという思想に基づいており、「正朔を奉ずる」(天子の定めた元号と暦法を用いる)ことがその王権への服従の要件となっていた。

元号が政治的支配の正統性を象徴するという観念は、元号を建てることにより、既存の王朝よりも自らの正統性が優越しているか、少なくとも対等であることを示すことができるという意識を生んだ。そのため、時の王朝に対する反乱勢力はしばしば独自の元号を建てた。また、時の政権に何らかの批判を持つ勢力が、密かに独自の元号を建てて使用することもあった[注 1]。このように、後世から公認されなかった元号を「私年号」と呼ぶ。

中国王朝の政治制度を受容した周囲の王権は元号制度もともに取り入れているが、これも同様の発想に由来する。中国王朝から見れば、中国王朝を真似て、しかもこれと対等であることを示すために建てられた周辺諸国の元号は、やはり「私年号」であり、使用は許されないものであった。一方で周辺諸国の王権は中国王朝から冊封を受け、周囲の競争勢力に対する自らの正統性の保障としたが、冊封の条件の一つが「正朔を奉ずる」ことであったため、独自元号の使用と冊封は両立しない要素であった。この矛盾の均衡点は中国王朝と冊封国との力関係によって決まっており、地理的に近く何度も国土を占領されている朝鮮半島では独自元号が少ないのに対し、地理的に遠く中国王朝との戦争に勝っているベトナムや、海を隔て後には冊封すら受けなくなった日本では長期間独自元号が使用されている。

元号は漢字2字で表される場合が普通だが、まれに3字、4字、6字の組み合わせを採ることもあった。最初期には改元の理由にちなんだ具体的な字が選ばれることが多かったが、次第に抽象的な、縁起の良い意味を持つ字の組み合わせを、漢籍古典を典拠にして採用するようになった。日本の場合、採用された字はわずか72字であり[1]、内21字は10回以上用いられている。

独自の元号が建てられた国家には、以下の項目に挙げる他、柔然高昌南詔大理渤海がある。また西遼西夏中国史に入れる解釈もあるが、いずれも独自の文字を創製しており、元号も現在伝えられる漢字ではなく、対応する独自文字で書かれていた。

日本[編集]

元号を用いた日本独自の紀年法は、西暦に対して和暦(あるいは邦暦)と呼ばれることがある。日本国内では今日においても西暦と共に広く使用されており、今年(西暦2016年)は平成28年に当たる。

元号使用の歴史[編集]

宗福寺にある源清麿の墓。左下に「安政」の元号が刻まれている。
1895年11月8日、三国干渉の結果となった遼東半島還付条約。日本の「明治」との「光緒」、二ヶ国の年号が記されている。

日本書紀』によれば、大化の改新645年)の時に「大化」が用いられたのが最初であるとされる。以後、7世紀中後期には断続的に元号が用いられたことが『日本書紀』には書かれている。しかし、当時使われた木簡の分析によると、元号の使用は確認されていない。まだ7世紀後半は、元号よりも干支の使用が主流だったようである。文武天皇5年(701年)に「大宝」と建元し、以降継続的に元号が用いられることとなった。

南北朝時代には、持明院統北朝)、大覚寺統南朝)が独自に元号を制定したため、1331年から1392年まで2つの元号が並存した[2]建武元年、同2年は、南北共通)。

室町時代には、朝廷が元号を定めた新元号を将軍が「吉書始」と呼ばれる儀式で改元を宣言して武家の間で使用されるようになった。そのため元号選定には武家の影響力は強いものとあった。特に足利3代将軍義満以降改元に幕府の影響が強まるが、一方で京都の幕府と対立した鎌倉府が改元を認めずに反抗するという事態も生じた。また応仁の乱などで朝廷と幕府が乱れると朝廷による改元と幕府の「吉書始」の間が開くようになり、新元号と旧元号が使用される混乱も見られた。

江戸時代に入ると幕府によって出された禁中並公家諸法度第8条により「漢朝年号の内、吉例を以て相定むべし。但し重ねて習礼相熟むにおいては、本朝先規の作法たるべき事(中国の元号の中から良いものを選べ。ただし、今後習礼を重ねて相熟むようになれば、日本の先例によるべきである)」とされ、徳川幕府が元号決定に介入することになった。

戊辰戦争前(慶応以前)には、天皇の交代時以外にも随意に改元していた。しかし、戊辰戦争の結果として全国政府の座を奪取した明治政府は、明治に改元した時に一世一元の詔を発布し、明治以後は、新天皇の即位時に改元する一世一元の制に変更された。これにより、辛酉改元や甲子改元も廃止された。さらに、1872年(明治5年)には、西洋に合わせて太陽暦グレゴリオ暦)へと移行することになり、「旧暦太陰太陽暦)に代わるとして永久にこれを採用する」との太政官布告により採用された[3](詳細は「グレゴリオ暦#日本におけるグレゴリオ暦導入」を参照)。それに伴い、元号や干支、神武天皇即位紀元(皇紀、神武暦)[注 2]に加えて、キリスト紀元(西暦、西紀)の使用も始まった。しかし、太陽暦に移行しても、1910年代までは旧来の太陰太陽暦(天保暦)での暦が併記されていたように、年数を数えるにおいて民衆には浸透しづらかった側面もある。

第二次世界大戦後に、日本国憲法制定に伴う皇室典範の改正をもって、元号の法的根拠は消失した。しかし、官民関わらず「昭和」の元号が使用され続けた。だが、第二次世界大戦終結の翌年に当たる1946年(昭和21年)1月には、尾崎行雄が衆議院議長に改元の意見書を提出した。この意見書において、尾崎は、第二次世界大戦で敗れた1945年(昭和20年)限りで「昭和」の元号を廃止して、1946年(昭和21年)をもって「新日本」の元年として、1946年(昭和21年)以後は無限の「新日本N年」の表記を用いるべきだと主張した。これに対して、石橋湛山は、『東洋経済新報1946年(昭和21年)1月12日号のコラム「顕正義」において、元号の廃止と西暦の使用を主張した。1950年2月下旬になると、参議院で元号の廃止が議題に上がった。ここで東京大学教授の坂本太郎は、元号の使用は「独立国の象徴」であり、「西暦の何世紀というような機械的な時代の区画などよりは、遙かに意義の深いものを持って」いる上、更に「大化の改新であるとか建武中興であるとか明治維新」という名称をなし、「日本歴史、日本文化と緊密に結合し」ていることは今後も同様であるため、便利な元号を「廃止する必要は全然認められない」一方で「存続しなければならん意義が沢山に存在する」と熱弁をふるった[4]

しかし、1950年(昭和25年)6月に朝鮮戦争が勃発すると、元号の議題は棚上げされた。以来、元号の廃止や新たな元号に関する議論は低調にとどまり、現在に至るまで元号と西暦の双方が使用され続けている。一方で、皇紀に関してはほぼ使用されなくなった。

その後論争を経て1979年(昭和54年)に元号法が制定された。これは昭和天皇の高齢化と、世論調査で国民の87.5%が元号を使用している実態(1976年当時)[5]に鑑みたものである。元号法では「元号は皇位の継承があった場合に限り改める」と定められ、一世一元の制が維持された。ここで再び元号の法的根拠が生まれ、現在に至っている。

元号使用の現状[編集]

日本において、元号は元号法によってその存在が定義されており、法的根拠があるが、その使用に関しては基本的に各々の自由で、私文書などで使用しなくても罰条などはない。一方で、西暦には元号法のような法律による何かしらの規定は存在しない。なお、元号法制定にかかる国会審議で「元号法は、その使用を国民に義務付けるものではない」との政府答弁があり[注 3]、法制定後、多くの役所で国民に元号の使用を強制しないよう注意を喚起する通達が出されている。また、元号法は「元号は政令で定める事」「元号は皇位の継承があった場合に限り改める事(一世一元の制)」を定めているにすぎず、公文書などにおいて元号の使用を規定するものではない。しかしながら、公文書の書式においては生年などを記載する際、西暦を選択しまたは記載するためのスペースはほとんど設けられていない。そのため、日本共産党などは、事実上西暦が否定されており「元号を使わなければ受理しないなど、元号の使用が強制されているのは不当」であると主張している[6]。同様に、キリスト教原理主義者団体などは「元号の使用を強制し西暦の使用を禁止するのは、天皇を支持するか否かを調べる現代の踏み絵である」と主張している[7]

国や地方公共団体などの公文書ではほぼ例外なく元号が用いられるが、特許庁が発行する公開特許公報は「平成22年(2010年)」の形で元号の後に西暦を併記している。また、旅券(パスポート)は日本国外でも用いられるため、例外的に名義人の生年が西暦で記載されている。住民基本台帳カードは有効期限が西暦で生年月日が元号で表記されている。この他、国内でもっぱら使用される器具に対する例外も存在しており、気象測器検定規則(平成14年3月26日国土交通省令第25号)に定められた気象機器の検定証印の年表示、乳及び乳製品の成分規格等に関する省令(昭和26年12月27日厚生省令第52号)に定められた食品の賞味期限表示の一部などは、西暦を使用するよう規定した法令も少数ながら存在する。

運転免許証に見る元号の使用例

日本国内において西暦の併用が増加したのは、1964年(昭和39年)の東京オリンピックに向けてのキャンペーンを経た後である。皇室典範改正により元号が法的根拠を失った後も、東京オリンピックのキャンペーンが始まる前までは、1952年(昭和27年)に分離された沖縄小笠原諸島千島列島を除き、前述の背景により元号のみが常用されていた。とはいえ、1976年(昭和51年)に行われた元号に関する世論調査では、「国民の87.5%が元号を主に使用している」と回答しており、「併用」は7.1%、「西暦のみを使用」はわずか2.5%であった。元号が昭和から平成に変わると、「西暦を併用する人」「西暦を主に使用する人」も次第に多くなってきた。殊に21世紀に入った今日では、インターネットの普及などもあり、日常において「元号より西暦が主に使用されるケース」は格段に増えてきており、元号では「今年が何年なのか判らない」「過去の出来事の把握が難しい」という人も青少年を中心に増えてきている。しかし、元号は前述の通り公文書で使用されており、公的機関に提出する書類や申請書でも元号が使用されることが多い。この他、一般社会でも企業に提出する書類やビジネス文書、その他の私文書などにおいて、元号を使用するケースが多々ある。そのため前述のような元号による時代把握が困難な者でも、今年の元号については把握していたり、自分の生まれた年などは西暦よりも元号の方で覚えていることが少なくない。また、改まった手紙年賀状など元号は状況に応じて使用されている。

報道機関では朝日新聞1976年(昭和51年)1月1日に、毎日新聞1978年(昭和53年)1月1日に、読売新聞1988年(昭和63年)1月1日に、日本経済新聞が1988年(昭和63年)9月23日に、中日新聞東京新聞が1988年(昭和63年)12月1日に、日付欄の表記を「元号(西暦)」から「西暦(元号)」に改めた。それでも、昭和年間の末期には、未来の予測(会計年度など)を「(昭和)70年度末」といった表記をするのがザラであった。1989年(平成元年)1月8日の平成改元以降、その他の各報道機関も本文中は原則西暦記載、日付欄は「2012年(平成24年)」の様に「西暦(元号)」という順番の記載を行うところが多くなったが、産経新聞[注 4]東京スポーツ、一部の地方紙[注 5]NHKのニュースのように本文中は原則元号記載、日付欄は「平成22年(2010年)」の様に「元号(西暦)」という順番の記載を行っている報道機関もある。しんぶん赤旗は、日付欄に元号と西暦を併記していた時期があったが、平成改元以後は西暦表記のみとしている。

元号使用の不都合[編集]

以下の理由から西暦を使用する者や西暦を使用せざるを得ない者、または元号自体に否定的な姿勢を示す者もいる。

  • 西暦には終わりがなく、紀年数は常に変わらない。しかし、元号には終わりがあり、いつかは変更される。明治維新前は大事件や征夷大将軍の都合などで幾度と変更され、明治維新後は新天皇の即位天皇の死または退位)によって変更されている。その上、在位中の天皇がいつ死ぬかも予測できず、日本国憲法第1条の規定により天皇制が永久に存続するという確証もない。このため、例えば“平成100年”(西暦2088年)のような遠い未来の紀年を正確に表現できない[注 6]
    • 現行の皇室典範や元号法では、天皇が生きているうちに退位(譲位)した場合の、改元その他の対応が明文化されていない。従って、今上天皇(第125代天皇明仁)が生前に退位した場合に、対応がどうなるかが不透明である。
  • 元年より前の過去を表現する場合、西暦では「紀元前N年」という形で表現できるが、元号には「紀元前」が設けられていない。このため、例えば“明治前28年”(西暦1840年。実際は天保11年)という過去の紀年を正確に表現できない。そして、元号そのものが施行される前の過去は、もはや表現できない。
  • 日本独自の紀年であり、国外では通用しないので、外国人には理解されにくい。日本国内でも、元号ではなく西暦で時期を覚えている人には、同様の問題が生じる。[8]
  • 西暦では1年に対する紀年数が常に1対1の関係にあるのに対し、日本の元号制度では「立年改元」ではなく「即日改元」を採用しているため、1つの西暦年に対して複数の元号(1860年安政7年・万延元年。1989年昭和64年・平成元年)が混在する例や、翌月が新しい元号の「元年」ではなく「2年」になる例が発生する。
    • 過去の日本では、749年に、天平天平感宝天平勝宝と、3つの元号が混在した例がある。また、大正15年(西暦1926年)12月10日の1ヶ月後の日付は、昭和2年(西暦1927年)1月10日である。明治以後の現在は一世一元の改元であり、年に3代の天皇が即位される可能性は極めて低いが、当該事項のように複数の元号を充てる必要が発生した場合、大きな混乱が予想される。これらは特に、コンピュータで年を扱う際の事務処理や変換のアルゴリズムが煩雑になる(「昭和100年問題」のような年問題も発生させている。後述)。
  • 元号が変更される度に、各種印刷物記載の旧元号を新元号に修正する作業のための、余計な時間と費用を発生させる。また修正が困難である(一度公に出回ったもので回収や再配布にコストがかかるもの)か修正に時間がかかる[注 7]ため、無効となった元号の使用を続けざるを得ないケースがあり、混乱のもととなる。
  • 元号が異なる2つの年の前後関係を判別するには、元号の順序を記憶していなければならない。また、元号が異なる2つの年の間隔を計算するには、西暦などの無限の紀年法に換算するか、元号の継続年を知っていなければならない。(例:平成10年から明治30年まで何年離れているか、というような年数を数えにくい)。特に「和暦表記のみ」と「西暦表記のみ」が混在する場合はさらに混乱しやすい(例:昭和58年から1996年まで何年離れているかか、など)。
  • 年度の区切りが改元の区切りと一致せず、改元後年度の終了日までの呼称は旧元号による(例えば平成元年3月31日は昭和63年度に属する)ため、混乱を生じやすい。
  • 元号が不定期に変更されるため、時代の流れを切断し、世界史の中における日本史についての認識を誤らせる。
  • コンピュータにおけるファイル名の先頭部分に元号を用いた場合、単純に文字コードの順序で並べると、利用者の意図しない順序になる。
    例: 「元治→慶応→明治→大正→昭和→平成」の順序にすべきところが、「慶応→元治→昭和→大正→平成→明治」の順序になる(文字コード「シフトJIS」の昇順で並べた場合)。

元号の字数[編集]

日本の元号は伝統的に二文字であるが、元号に用いることのできる文字数は明確に制限されていない。この例外は聖武天皇光明皇后の時代から約四半世紀、天平感宝天平勝宝天平宝字天平神護神護景雲の5つ(四文字)のみである。

切手における元号[編集]

1952年に発行された立太子禮記念切手。元号のみの表記である。
1957年に発行された製鉄100年記念切手。このように西暦のみの表記である。
昭和33年お年玉年賀切手の表記のある小型シート。切手には西暦のみの表記であるが、小型シートの余白は元号のみの表記である。
1995年に発行された伊能忠敬肖像画の切手。このように西暦と元号が併記されている。

日本で発行されている切手には元号および西暦で発行年が記載されている。ただし歴史的にみれば大きな変遷がある。なお、記念切手には万国郵便連合(UPU)によって原則として西暦で発行年を入れるように規定されている。

日本の切手で発行年が入るものに記念切手があるが、記念切手の印面に戦前までは元号が入る場合と全くない場合が混在していた。ただし国立公園切手の小型シートには皇紀(西暦)とアラビア数字で記入されたものがある。第二次世界大戦後、発行された記念切手には「昭和二十二年」といったように漢数字で表記されていたが、経緯は不明であるが1949年頃から西暦のみで表記されるようになった。ただし、年賀切手の中に一部例外があるほか、皇室の慶事に関する記念切手は元号のみの表示の場合があった。また年賀小型シートなどには「お年玉郵便切手昭和三十一年」といった元号による表記があるほか、切手シートの余白には元号で発行年月日が入っていたが、1960年(昭和35年)頃からなくなった。

1979年(昭和54年)に施行された元号法による政策のためか、1979年(昭和54年)7月14日に発行された「検疫制度100年記念切手」から西暦と元号で併記されるようになった。ただし理由は不明だが、毎年発行される国際文通週間記念切手のみは西暦しか表記されていない。また切手シートの余白に1995年(平成7年)頃から「H10.7.23」というローマ字による発行年月日が、さらに2000年(平成12年)からは「平成12年7月23日」という元号表記が入るようになった。

なお、世界的に見ると切手に記入される年号としては西暦のほかにはイスラム暦、北朝鮮主体暦中華民国台湾)の民国紀元などがある。

元号をめぐる事件[編集]

  • 大正16年元旦」(1927年1月1日)に配達される予定であった年賀郵便には「(大正)16年1月1日」の日付印が押印されていたが、1926年末の12月25日に大正天皇が崩御したため、年賀郵便の取扱いそのものが中止になった。ただし、それまでに引き受けていた年賀郵便は年が明けて配達された。訂正の意味で「(昭和)2年1月1日」の日付印が押印されていたものもある。
  • 大正から昭和へ改元される際、東京日日新聞(現・毎日新聞)が新しい元号を「光文」との誤報を流した(詳細は「光文事件」を参照)。
  • 盗難預金通帳を偽造された保険証で本人確認をして銀行が払い戻しをした過失に対する民事訴訟で、銀行側が保険証の生年月日が「昭和元年6月1日」という存在しない日付(上記のとおり、昭和元年は12月25日からの1週間しかない)なのに気が付かなかった過失があるとして敗訴した事例[9]がある。

コンピュータでの処理[編集]

元号を採用している日本においても、コンピュータでは元号よりも西暦による処理の方が次の点において便宜であるとされる。

  • 元号では改元される毎に新元号に換算する処理を追加する必要があるが、西暦ではそれが不要である。ただし、アプリケーションによっては、コンピュータの内部処理として特定の日付を基準とした(例えばExcelでは1900年1月1日を基準日とする)シリアル値で管理しているので、西暦であっても基準日以前を使用する場合は別途計算処理が必要となる。
  • 西暦を使用する外国の情報を利用する際に、元号で表記するには西暦から和暦に換算する処理が必要となる。
  • オペレーティングシステムの大半は、ファイル作成日付に見られるように西暦を使用している。

これらの点から、日本でもコンピュータでの処理に際しては内部で西暦を用いているが、全ての公文書では元号を使用することを始め、一般にも書類事務は元号を用いるというニーズが根強いため、表示や入力に際しては元号を使用できるアプリケーションが多い。これは、特に使用者を限定せず多様な用途が想定されているオフィススイートに顕著である(ExcelOpenOffice.orgなど多種)。

なお、昭和年間に使用されていたアプリケーションの中には、年を「昭和○○年」として入力し、処理されているものがある。平成以降も、内部的に昭和の続きとして扱うため、1989年(平成元年=昭和64年)、1990年(平成2年=昭和65年)、1991年(平成3年=昭和66年)…として処理される。しかし、3桁になる2025年(平成37年=昭和100年)に誤作動が起きる可能性(昭和100年問題)が懸念されている。

Excel 98 以前は、年を2桁で入力した場合は元号優先で処理していた。例えば、「08.03.01」と入力した場合、Excel 98 以前のバージョンでは「平成8年(1996年)3月1日」と処理されていた(詳細は「Microsoft Excel#日付の変換問題」を参照)。なお、Excel 2000 以降のバージョンでは西暦(この場合、「2008年3月1日」)で処理されるようになっている。

西暦と元号との変換[編集]

西暦年から元号年を簡易に計算する方法として、知りたい年の西暦の紀年数から各元号の元年の前年(0年)の西暦を引いて元号の紀年数を算出する方法がある(逆に、加えると西暦が算出できる)。減算は、下2桁どうしでもよい。

  • 1867年 = 慶応3年 = 明治0年
    • 1878年: 78-67 = 明治11年
    • 明治11年: 1867+11 = 1878年
    • 1967年: 1967-1867 = 明治100年
      「明治100年」の式典は 1968年(昭和43年)の10月23日に行われた。
  • 1911年 = 明治44年 = 大正0年
    • 1919年: 19-11 = 大正 8年
  • 1925年 = 大正14年 = 昭和0年
    • 1947年: 47-25 = 昭和22年
    • 昭和63年: 1925+63 = 1988年
      昭和は西暦と下1桁が5ずれているので、比較的数えやすい。
  • 1988年 = 昭和63年 = 平成0年
    • 1990年: 90-88 = 平成2年
    • 1999年: 99-88 = 平成11年
    • 2008年:108-88 = 平成20年
      西暦に12を足して下二桁を読むことで、平成年を算出することもできる。

中国[編集]

で発行された大明通行宝鈔と呼ばれる紙幣。左下に洪武の元号が書かれている。

前漢武帝の治世・紀元前115年頃に、統治の初年に遡って「建元」という元号が創始されて以降、まで用いられた。

武帝以前は王や皇帝の即位の年数によって、単に元年・2年とだけ数えられ、新しい王が即位すると改元されて再び元年から数えられる在位紀年法が用いられていた。治世途中での改元は文帝によるものが最初で、改元後は後元年・後2年(景帝は2度改元し、「中」「後」を用いた)とされた。武帝の時、「元」は祥瑞によって決めるべきで、即位の年を「建」、彗星出現の年を「光」、一角獣麒麟)捕獲の年を「狩」とすることが献策された。これによって「建元」「元光」「元狩」といった元号が作られ、以後、このような漢字名を冠した元号を用いる紀年法が行われるようになった。

中国の元号は、中国王朝の冊封を受けた朝鮮南詔渤海琉球などでもそのまま使われた(南詔・渤海は独自の元号も使用)。

の太祖(朱元璋)は、皇帝即位のたびに改元する一世一元の制を制定した。これにより実質的に在位紀年法に戻ったといえるが、紀年数に元号(漢字名)が付されることが異なっている。また元号が皇帝の死後の通称となった。

1911年辛亥革命によってが倒れると元号は廃止された。各省政府は当初、革命派の黄帝紀元を用いていたが、これもまた帝王在位による紀年法であり、共和制になじまないという理由で、中華民国建国に際し、1912年を中華民国元年(略して民国元年)とする「民国紀元」が定められた。1916年袁世凱帝制中華帝国)を敷いた時には「洪憲」の元号を建てた。ただし、清室優待条件によって宣統帝溥儀紫禁城で従来通りの生活が保障されており、宮廷内部では「宣統」元号が引き続き使用されていた。このことが溥儀の「復辟(帝制復活)」への幻想を生んだ。

満州国1932年に建国すると「大同」と建元し、1934年に溥儀が皇帝に即位すると「康徳」と改元され、1945年の滅亡まで続いた。

中華人民共和国が大陸を制覇すると、「公元」という名称で西暦が採用された。キログラムが「公斤」と、キロメートルが「公里」と表記されるのと同じで、これは元号ではなく中国語表記。一方、中華民国(台湾)では民国紀元が現在に至るまで用いられている。暦学的な厳密さを必要としない局面では、略して「民国」と表し、「宣統」の次の元号として扱われることが多い。西暦2016年は、中華民国105年(民国105年)である。

ベトナム[編集]

ベトナムでは、中国から独立した970年から独自の元号が用いられるようになり、1945年阮朝滅亡まで続いた。阮朝は一世一元の制を採用したが、それ以前も陳朝期以降は在位中の改元が少ない。

19世紀後半にフランス植民地支配が始まると、新たに公用文となったフランス語文書で元号が使われることはなく、次いで広まったクォックグーベトナム語ローマ字表記)でも同様であり、元号の認知度は次第に低下した。1945年にベトナム八月革命が勃発し、ベトナム民主共和国(1945年 - 1976年)の成立に伴い君主制が廃止されると、元号も全廃され、公用年号は西暦に統一された。しかし、1976年までの旧北ベトナムにおいて、寺社などの建築物の棟札・扁額や祈祷文などに見られる漢字テクストの中には1945年を元年とする「越南民主共和」と干支を非公式に使用した例があり、また、1946年発行の2ドン(đồng)銅貨にも西暦とともに1945年を元年としたnam II(2年)という表示がある。1976年以後も「共和社会主義越南」の使用例が同様に存在する(「共和社会主義越南」元年は「越南民主共和」元年と同じ1945年である)。また、同様に旧南ベトナムの寺社においても「越南共和」(ベトナム共和国1955年 - 1975年)を非公式の紀年法として使用した例がある。

朝鮮半島[編集]

韓国併合ニ関スル条約」に関する李完用への全権委任状。左に純宗の署名「」と共に「隆熙」の元号が記されている。

朝鮮半島では三国時代の高句麗広開土王が西暦391年に「永楽」という独自元号を使ったという記録が最古のものであり、その後も複数の元号を使った史料がある。

新羅でも650年までは独自の元号が用いられていた。高麗も第4代の光宗までは独自の元号が用いられたが、その後は中国の元号を用いた。李氏朝鮮では中国の元号を初めから用いたが、清に征服されその冊封を受けた後も、内心ではなおその正統性を認めずに国内文書では干支と国王の在位紀年が用いられ、また一部では明の崇禎の元号を用い続けた(崇禎紀元)他、近代に入ると太祖李成桂が即位した1392年を元年とする「開国紀元」の使用が見られるようになった。日清戦争により清の影響下から離れると「開国紀元」が公用化され、次いで1896年グレゴリオ暦採用に伴い「建陽」の元号を建てた。1897年大韓帝国成立後は一世一元の制を採用して「光武」「隆熙」の元号が定められ、1910年韓国併合まで使用された。日本に併合されていた期間には日本の元号が西暦と併せて用いられた。

独立後、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は西暦を公式の紀年法としていたが、1997年9月9日金日成の生年である1912年を元年とする「主体暦」の採用を宣言し、西暦と併用している。西暦2016年は、主体暦105年である。

大韓民国では、建国当初の一時期(1948年8月15日 - 9月24日上海大韓民国臨時政府が樹立された1919年を元年とする大韓民国紀元を公用年号としたが、その後李承晩政権時代には神話上最初の君主とされる檀君が即位した紀元前2333年を元年とする檀君紀元(檀紀)を採用した。1962年からは西暦に切り替えたが、その後も非公式に檀紀が使われることがある。西暦2016年は、檀紀4349年である。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ このほか、日本では室町幕府と対立した古河公方足利成氏が改元を無視して以前の元号を使い続けたという例もある。ただし改元詔書を幕府方の関東管領上杉氏のみに下したとの説もあり。詳細は「享徳」を参照。
  2. ^ 1840年代から1860年代にかけては、藤田東湖など国学者が皇紀を用いていた。
  3. ^ 元号法案(趣旨説明)での答弁(参議院会議録情報 第087回国会 本会議 第13号1979年昭和54年)4月27日)を以下に抜粋する。
    • 国務大臣(三原朝雄君):(中略)次に、本法案が制定をされた後において、公の機関の手続あるいは届け出等において強制的な措置がとられるのではないか、現在でもそういうのが見られるがという御指摘でございました。御承知のように、私ども、本法案が制定されますれば、公的な機関の手続なりあるいは届け出等に対しましては、行政の統一的な事務処理上ひとつ元号でお届けを願いたいという協力方はお願いをいたします。しかし、たって自分は西暦でいきたいという方につきましては、今日までと同様に、併用で、自由な立場で届け出を願ってもこれを受理すると、そういう考えでおるわけでございます。
    • 国務大臣(古井喜実君):法務に関する部分についてお答えを申し上げます。従来、戸籍などの諸届けの用紙に、不動文字で「昭和」と、こういうことを刷り込んでおることは事実でございます。これは申請者に便宜を与える、便宜を図るというだけの趣旨のものでございまして、強制するとか拘束するとかという趣旨ではございません。新しい元号法が施行されるといたしまして、その場合、この辺につきましては誤解が起こらぬように、強制する、拘束するものではないという趣旨を十分徹底して、行き違いがないようにいたしたいと思っております。
    • 国務大臣(渋谷直蔵君):私に対する質問は二問ございますが、一つは、ただいま法務大臣からも御答弁がありましたように、市町村における戸籍上の届け出、住民登録、印鑑登録など、現在法的根拠がないにもかかわらず強制しておるのではないかと、こういう御質問でございます。現在の住民基本台帳、それから印鑑登録のそれらの様式は、いずれもこれは市町村が自主的な判断で定めておるわけでございますが、一般に元号が使用されておりますけれども、これはもう御承知のように、従来からの慣行によって行われ、協力を求めておる、強制するというものでないことは言うまでもございません。このことによって別に不都合なことは生じておらないと考えております。 
  4. ^ 産業経済新聞社が発行する産経新聞は国内の記事に関して一貫して元号表記のみを行っており、同社が発行するサンケイスポーツも原則元号表記のみとなっている(ただし、産経新聞の記事を配信するウェブサイト「産経ニュース」では、トップページの今日の日付は「2010(平成22)年04月04日」、個々の記事タイトルの下にある配信日時は「2010.4.4 02:04」、記事の本文中では「平成22年」のように不統一が見受けられる)。また同社が発行する新聞では夕刊フジもかつては同様であったが、2007年(平成19年)2月1日より原則西暦表記に変更している。さらに、同社が発行するタブロイド版日刊紙「SANKEI EXPRESS」は西暦を主に使用するなど、新聞によって方針が異なっている。
  5. ^ 河北新報静岡新聞熊本日日新聞など。
  6. ^ 昭和年間には、行政庁の政策計画に“昭和7n年”(昭和70年代)なるものまで存在した例や、荒俣宏の小説『帝都物語』に“昭和73年”(1998年、実際の元号は平成10年)の用例がある。平成年間においても、高速道路の開通予定年度などで“平成3n年”(平成30年代)という表記が存在している。また、運転免許証の有効年月日が「昭和66年」(当時は3年有効のみ)といった無効の年度のものを使用していた者も当時は少なくなかった。極端な例では「昭和230年」(西暦2155年)と表記したものも見られた。(厚生白書 (昭和49年版)
  7. ^ 1989年に発行された硬貨がこの例に当てはまる。昭和天皇が逝去した直後も、「平成元年」の金型ができ上がるまでの期間は、刻印の製作が完了していなかった50円と100円硬貨以外の額面の硬貨は「昭和64年」の刻印で発行された。また平成最初の日である1989年1月8日日曜日であり、新聞社によってはあらかじめ印刷されていた日曜版を後日配達したため、その日付けが「昭和64年1月8日」という無効の日になった。

出典[編集]

  1. ^ 香川県立図書館 (2110006) 香調-1315 レファレンス協同データベース(元号の千三百余年 文字は全部で72種~縁起物…改元たびたび 朝日新聞、1989年1月8日)
  2. ^ 『アラサーの平成ちゃん日本人だから知りたい日本史を学ぶ』101頁。著者はもぐら。発行所は竹書房。2015年4月2日発行。
  3. ^ 改暦ノ詔書並太陽暦頒布(明治5年11月9日太政官布告第337号) 改暦詔書の全文
  4. ^ 「日本の年号の一考察―平成の改元を中心に―」王福順(2007年9月)
  5. ^ 「元号に関する世論調査」
  6. ^ 元号にかんする考え方は?(1999年11月6日)、日本共産党が西暦を使うのは?(2001年12月16日)」日本共産党中央委員会
  7. ^ 信教の自由を守る日 日本キリスト改革派横浜中央教会2012年5月2日
  8. ^ 若者の被告が相手の裁判 「元号」で検事困る[リンク切れ]
  9. ^ 昭和元年6月1日」ひよっこ支部長の司法書士ブログ(BLOG)、2005年2月23日

参考文献[編集]

  • 所功『日本の年号 揺れ動く<元号>問題の原点』雄山閣、1977年、ISBN 4639002378
    • 続刊『年号の歴史 元号制度の史的研究』 雄山閣出版、1988年、増補版1996年
  • 村松剛ほか 『元号 いま問われているもの』 日本教文社、1977年
  • 瀧川政次郎 『元号考証』 永田書房、1974年
  • 歴史と元号研究会 『日本の元号』 新人物往来社文庫、2012年

関連項目[編集]