新聞小説とは

「新聞小説」についての感想を書けといふ注文である。本紙連載の「泉」をやつと書きをへたところなので、それがどういふものであるにもせよ、自分のことを問題にするやうで気がひけるけれども、経験を経験として率直に語つてみよう。
 職業的といふ言葉が当節いろんな意味に使はれてゐるが、私は、「新聞小説」ぐらゐ「職業」といふ意識をもつて書かなければならぬ文章は、ほかにはさうないと思ふ。これは必ずしも「新聞小説」を卑めていふわけではない。そこで「職業」といふ言葉に対する考へ方をまづきめてかゝらねばならぬ。
 第一に、新聞がなぜ現在とりつゝあるやうな形式で小説を連載する必要があるのかといふ点である。
 第二に、新聞の読者で、小説をも毎日欠かさず、或は気が向いた時だけとびとびに読む人々は、いつたい、どういふ要求から[#「どういふ要求から」に傍点]、またどんな読み方[#「どんな読み方」に傍点]で、これらの小説を読むのが普通であるかといふ点である。
 以上の二点から「新聞小説」の条件或は制約といふものが生れて来るとみなければならない。
 読者層が階級的にも地方的にも極めて広いといふやうなことを第一の条件とする説もあるやうだが、私は、この説をあんまり信用しない。広いには広いに違ひないけれども、これはもう、厳密には一人の作者にとつてはどうにもならないことで、せいぜい「調子をさげる」などといふ馬鹿な手が考へられるくらゐなものである。
 さて、新聞がなぜ小説などを細かく切つて載せなければならぬかといふ点であるが、この解答は新聞社側にお願ひしたいものである。私はただ想像にすぎぬが、西洋諸国にも例がある通り、これは単に、あまりに現実的な日々の事件の相貌に一脈の空想味を盛り、あまりに険しい活字面の公式的俯瞰のなかに、いくばくのフアミリアルなスタイルを与へようとする意図の現れではないかと思ふ。
 文学とジヤアナリズムとの結びつき方に二様ありとすれば、これは正しくその一つで、作家がその「生活」をのみジヤアナリズムに託する純粋派に対して、「作品」自体をまでその機能に合致させようとする応用派に属するものである。
 私一個の見解をもつてすれば、ある新聞の小説と、同紙面との調和不調和といふことはこゝで相当重要な問題になつて来ると思ふ。作者の撰択が常にいくぶんこの標準で行はれてゐるものと判断はできるけれども、作者の側からすれば、それも亦一の制約であり、時には拘束でさへもある。
 読者はたゞ、今日の分は面白いとか面白くないとかいつて読んでゐればいゝのだが、新聞社の当事者は、検閲などといふことゝは別に、毎日の一回分をはらはらしながら眼を通してゐることだらうと思ふ。それと同様に、作者の立場からは、実を云ふと、自分の書いてゐる間は少くとも、毎日の新聞記事が自分の責任みたいに気になつてしかたがないのである。をかしなものである。
 新聞社が作者に対し、いろんな注文を出すといふ風説が行はれてゐる。これは、私の知る限り、まつたくの嘘ではないが、文字通りの真相でもない。作品そのものゝ価値に影響するやうな注文を、黙つて聴く作者もあるまいが、要するに、新聞小説の条件に関する一般的要求がそこに現はれて来るのは当然で、この条件は、作者自身と新聞社当局とが、その意見を持ち寄らなければ、完全な具体性をもち得ないものと私は信じてゐる。

 

 次に、新聞小説を読む読者の質について屡々説をたてるものがあるが、私の経験ではそれを決定するなんらの拠りどころはないやうである。
 寧ろ、新聞小説を読むものが、どういふ要求から、どんな読み方をするかといふ方が、作者として参考になる。
 お互に気がついてゐるやうに、新聞の連載ものは、毎日欠かさず読まなければ、その興味はまづ大半失はれると云つていゝ。ところが、毎日欠かさず読む人は、非常な努力をしてか、或は、やゝ習慣になつてゐるか、どつちかである。
 私はどつちかといふと、新聞の連載小説といふものを、たゞの一度も通読したことがない。二日続けて読んだものも稀である。読みたいものは本になつてから読めるといふ安心があるのと、せつかちで物臭と来てゐるから、努力もしないし、習慣もつかないのである。
 しかし、読書人として読むものに事を欠かぬ錚々たる私の友人の二三は、どんな小説でも取つてゐる新聞の小説は必ずみんな読むと豪語してゐる。かういふ人々がどんな要求からどんな読み方をしてゐるか、本音を聞いてみたいものだと思ひながら、まだそれを果さずにゐるが、おほかた、察しはつくのである。
 その他、投書などによつて推定される一般の読者について、私は常に新聞小説といふものが、いかなる制約があるにせよ、やはり書き甲斐のあるものだといふことを感じさせられる。
 しかし特別な場合を除き、全部を書き終へてから発表するといふ当り前なことがどうしてもできない実情と、読者の側からは、一回に限られた僅かの行数を、まる一日の間をおいて読み続けて行かねばならぬといふ奇妙な読書法とを、殆ど無意識ではあるが今日まで多くの作家が、「新聞小説」のひとつの「呼吸」として、生かし、利用してゐることは否めない。
 こゝから新聞小説の、即興的とまでは云へぬにしても、やゝ「時間芸術」のあるものに類似した、観念の深さの限界と、文体に必然的に影響するリズムの法則とが考慮されなければならぬのではないかと思ふ。
 強ひて理窟をつければ、まあこんなことになるけれども、だいたい、そんなことは計算づくで書いてゐるわけでもあるまい。文学の諸種目を生みだす制約といふものが、鑑賞者のそれに応ずる精神の働かせ方に基礎をおいたものであるとすれば、特に、例へば、新聞小説の場合に、読者の「記憶力」を強要するといふやうなことは、実際、それをする方が無理なことはわかりきつた話なのである。
 新聞小説は、云はゞ、現代の「活字」の暴威のなかに育ち、しかも、印刷術発明以前の「物語」とひそかに相通ずる一種皮肉な反抗児ではあるまいか?
 最後に、拙作「泉」をなが/\読んでくださつた読者に、同じ紙面をかりて序にお礼を申したい。鞭撻、助言、批評を与へられた方々にも、いちいち返事はさしあげなかつたが、こゝでご挨拶をしておくことにする。

 

新聞小説

新聞小説には殆ど経験がないといつてもいゝし、従つて自分でかうといふ野心を持つてゐるわけでもありませんけれども、自分だけの問題として考へれば、これからも新聞の小説を書いてみようといふ興味があるし、書くに就いては形式の上から云つても内容の上から云つても、自分が満足するだけでなく、非常に広い範囲にわたる読者へ相当興味の持てるやうなものをといふ事は自然考へてゐます。
 で、その形式や内容から言つて極く広い読者層に訴へるやうな小説といふのは、結局現代の社会を作家としての自分の特殊な立場から見て、それにある程度の批判を加へたものでなければならない。一体に新聞の読者といふものが外の雑誌の読者と異つて、どういふ層を含んでゐるといふ事はこれは殆ど見究めがつかないと思ひます。新聞の種類などによつて多少見当のつく場合もありますが、更にその新聞の読者の中でどういふ種類の人達が毎日の続きものを読んでゐるかといふ事になると、これは殆ど現在の商業劇場の見物以上に多種多様であつて、一口に言へば同じものがある読者にとつては非常に面白く、ある読者にとつては非常につまらないといふやうな結果が明瞭に、そして必然的に起つて来ると思ひます。で、さういふ色々な教養・趣味・思想の背景を持つた読者に一様に受け入られようといふ作品が、果して一人の作家の手で生れるかどうかといふことはまづ疑問としておいて、それでも尚且一つの新聞の連載小説を引受けた責任から言へば、自分の読者を少数の範囲に限るといふ事は絶対に出来ないことです。
 それで、まづ一例を上げると、現在ジヤアナリズムの表面で、甚だ流行してゐるかの如き諸傾向は、実際我々の周囲の堅実な、少くとも自分の生活を持つてゐる家庭乃至個人からは、それほど関心を持たれてゐないにも拘らず、さういふものがとり入られなければ、新聞小説でないやうな偏見を一部の社会に植ゑつけた事は大変に遺憾だと思ひます。
 誰でも引く例ですが、山本有三氏の「朝日」に書かれた小説などは、恐らくかういふ点で新聞そのもの、若い作者達、及び一般読者に甚だ好もしい反省を与へるものだと思ひます。然し僕はそれだからといつて、新聞小説とはかくの如きものをいふのであると断言するのではありません。あれも理想に近いものではあるが、尚一層形の変つた、全く別種の色彩を持つた連載小説が生れる事も希望してゐます。それは例へば今僕の訳しつゝあるジユウル・ルナアルの『にんじん』のやうなものが新聞の連載ものに向かないわけはないと思ふのです。
 或は又、夏目漱石の『猫』のやうなものが、もう一度出てもよくはありますまいか。漱石で思ひ出しましたが、漱石の小説は新聞小説としてもなか/\周到な用意を払つてあるやうに思はれますが、あれが所謂大衆とまでは行かないまでも、意外に多くの愛読者を持つてゐたといふ事は、作品の内容が高級であるといふ障碍を乗り越えてその実質的なレベルが、この結果をもたらしたといふ、美事な実例だと思ひます。
 尚、新聞小説の反響とか評判とかいふことで気がついてゐるのは、この反響とか評判とかいふものが極めてあてにならないものだといふことです。仮に所謂社内の評判といふものがあります。又友人間の評判といふものがあります。更に又文壇の反響といふものがあります。それからも一つ読者の反響です。作者はこの色々な評判や反響を気にしながら、毎日苦しい仕事をつゞけて行くのですが、果してどの評判に信頼し、どの反響を正しいものとすべきでせうか。或場合には全く正反対のこともあります。殊に甚だしいのは、いゝとか悪いとかいふ批評が作品のほんの一部分、ほんの一面に向けられた言葉に過ぎず、それが無責任に次から次へと伝はつて行くことです。聞く処によると、読者の声を代表するかの如き新聞社への日々の投書は、決して読者の声を代表するものではなくて、その中の極く偏した一部、極端に言へば物好きな弥次馬の声なんださうです。さういふ事を一々気にしてゐる作者もありますまいが、万一さういふ片々たる投書批評を標準にして新聞小説の傾向なり調子なりが決定されて行くとしたら、非常に嘆かはしい事です。
 僕は新聞の小説を引き受ける場合、一番気になるのは新聞社の方で初めから新聞小説の一つの型をきめてきてはゐないかといふことです。僕にはまだ自分の力でその型を破りながらしかも大多数の読者に満足を与へるやうな作品の見当がついてゐません。

 
 

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